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御用借・御用金の要請

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この時代、藩や幕府などに差し出した金銀は返金されることがないとの理解をもとに「献金」として扱われている。ところが、そうではない。返金されるものもあれば、されないものもある。つまり、次のように区別されているのである。一つは、御用銀といわれるもの、次に御用借といわれるもの、そして純然たる献上金があるのである。御用銀は幕府が藩へ課したもので、それを藩が農民から取り立てることを原則としたもので、次第に一般農民からの上納で賄えなくなって、富裕な農民や商人から上納を期待した。したがって、当然上納を命じられたものであるから、返金はない。次の御用借はあくまで藩の負債であって、元利返済を前提にして領民に上納させた。
 小倉藩にみられる御用金・御用借を第45表にした。この表から、分かることは、天保年間(一八三〇―四四)に集中していることである。ついで、幕府から小倉藩に課せられた「お手伝い」の費目が分かることである。お手伝いは公的な役目であったので、領内に夫役(現夫役ではなく代銀・金納)として課すことが出来た。そこで、この時期における重要な御用銀・御用借を摘出して述べたい。
第45表 御用金・御用借一覧表
年代1西暦種別金額名  目出  典
元和91623御手伝不詳二条城石垣普請(忠真)『福岡県史』近世史料編・御當家末書(下)298頁
寛永61629不詳江戸城三ノ丸堀石垣普請(忠真)      同上
寛永131636不詳江戸城二ノ丸石垣普請(忠真)      同上
宝永51708不詳相州酒匂川浚え(忠雄)      同上
正徳31713不詳紅葉山普請手伝      同上
宝暦41754不詳東叡山仁王門御普請手伝      同上
天明71787御用借銀165貫損耗ニ付、藩の当用差し支えのため『豊津藩歴史と風土』第1輯138~139頁
寛政81796300貫江戸城西丸手伝友石文書「明治廿三年福岡縣財政誌編纂雑留」
長井手永大庄屋文書『御當家末書』下巻
文化31806総高不詳幕府下命の御手伝(川凌御普請)長井手永大庄屋文書
文化81811   同    (通信使接待)『中村平左衛門日記』
文化141817   同      同上
文政111828御用銀300貫鶴ヶ岡八幡宮造営      同上
文政111828御用借800貫鶴ヶ岡八幡宮造営      同上
天保1183050貫藩財政・調達講      同上
天保31832総高不詳若殿様初入部の献金      同上
天保61835献金5000両殿様、溜間詰め昇進祝儀『北九州の歴史』、『田川市史』上巻
天保71836御用借3万両江戸表御定用金の資金難※『中村平左術門日記』、角家文書
天保818371万3000両小倉城天守閣など焼失につき再建費『田川市史』、上巻、長井永大庄屋文書「御用日記」
天保81837先納銀1400貫目      同上      同上
天保91838御用借2万2500両江戸城西の丸焼失普請の御手伝『中村平左衛門日記』、井手永大庄屋文書「御用記」
天保1018395000両藩主忠固の少将昇進の祝儀『中村平左衛門日記』、『田川市史』上巻
天保111840御用借2万5000両両替準備金としての先納金『中村平左衛門日記』、角文書、友枝文書
天保1118401万6000両両替本金不足の調達『中村平左衛門日記』、角文書、友枝文書
天保1418433万両幕命による日光御用と若殿様帰国祝儀六角文書
弘化118443万両江戸城本丸焼失につき再建の御手伝『中村平左衛門日記』、角文書
嘉永61853銀320貫目小倉城西ノ丸普請『田川市史』上巻
嘉永618533000両異国船警備金『田川市史』上巻、永井手永大庄屋文書「御用日記」、六角文書
安政21855総高不詳江戸表屋敷の普請『田川市史』上巻
文久21862御用借2万両社倉金積立(御撫育金積立)『田川市史』上巻、友枝文書

 
 ① 御用銀
 文政十一年(一八二八)は二度の台風で北部九州は大きな被害を出したが、幕府からは柳川・福山・古河・丸亀・津和野の各藩と小倉藩に、相模国鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮の修理・造営を命じられた。各藩に命じられた総費用は六万両で、小倉藩の負担は二万両であった。
 小倉藩はこの造営御手伝い金を、御用銀・御用借の二通りの方法で領民から調達しようとした。本来的には、幕府の命令であったから御用銀として調達してもよかったが、調達できない事情が存在したのであろう、御用借が併用されている。理由は、藩財政の手詰まり、すなわち京都・大阪・江戸の銀主からの借り入れ困難ということになっている。
 翌十二年の二月、次のような申し渡しがあった。御用銀が銀三〇〇貫目(郡方二〇〇貫目・町方一〇〇貫目)、御用借が銀八〇〇貫目(郡方五〇〇貫目・町方三〇〇貫目)の合計銀高一一〇〇貫目であった。両者合計して六三・六パーセントが郡方の割り当てで、「町方」は小倉城下町、主として商人に出金を求めているのである。これに対して、企救郡の大庄屋たちは、去年の大風水害の被害のため郡中一統が難渋しているので、年延べを申し出たが聞き入れられなかった。やむなく御用銀だけを調達することとし、御用借の方は延期を願った。しかし、藩側は御用借についても割り付けを申し付け強行した(第23図のア)
 

第23図 主な御用金・御用借

 天保九年(一八三八)の場合には、江戸城西の丸が焼失し、諸大名に御手伝い普請が課せられた。小倉藩の割り当ては二万二五〇〇両の御用金であった。これを領内に第23図のイにあるように割り付けた。本来これは「御用銀」で済ませることの出来る費目にもかかわらず、「御用借」となっていて十ヵ年賦で利息一割で出金を促した。また、三〇〇〇両を郡土蔵が負担していることに違いがある。
 ② 御用借
 ア 文政十三年(一八三〇、十二月に天保元年と改元)閏三月に、大阪の銀主(平野屋―高木五兵衛)の注文で藩の勝手向き(財政)の「御取続き」として、無尽方式で調達講(一口銀五貫目)に加入するように申し渡された(「文政十三年寅御用日記」閏三月二十五日の条、長井手永大庄屋文書)。これなどは、いちおう無尽の形態をとっているが、大阪などでの藩財政の「銀繰り」(資金繰り)の一種であるから、「御用借」と見なして取り上げた。
すなわち、
  企救郡 四口田川郡 四口京都郡 二口
  仲津郡 二口築城郡 三口上毛郡 四口
  飴屋  二口郡土蔵 二口
  〆 二三口


 の割り当てがなされた。「仲津郡は借財返済さえ、未だ容易ではないが、一口は郡中一統の割り付けなので断るわけにいかない。あとの一口は大橋の徳人に引き請けてもらう」(筋奉行大村藤兵衛)ことで、大庄屋たちの説得を図っている。
 イ 天保七年(一八三六)の場合は「この度大坂銀主平野屋要助から、御世帯向け繰り出御断り」(六角文書)の申し出があって、銀繰りに差し支えているから、領内から調達したい旨が大庄屋に伝えられた。これは天保三年から「平野屋札」(藩札)の下落、天保四年の買米制度の失敗と関連したものと考えられる。そこで、藩はこの急場を凌ぐため、江戸表御定用金という名目で三万両の借り入れを大庄屋たちに申し入れた(第23図のウ参照)。一万両は京都郡行事村の飴屋と上毛郡宇島の万屋が各五〇〇〇両ずつ割り当てられ、残り二万両が六郡の「高割り」で申し付けられた。この御用借は結局のところ「差上切りの場」となった。そして、この申し入れの直後、次のような触れ出しがあった。
  一、金二〇〇両以上は代々帯刀三人扶持
  一、金一〇〇両以上は帯刀御免、もとから帯刀を許可されているものは代々帯刀
  一、金五〇両以上は苗字御免一人扶持
  一、金三〇両以上は苗字・門松を許可
  一、金二〇両以上は苗字・門松の内どちらか一つを許可
  一、金一〇両以上は、上下御免
  一、金五両以上は脇差御免
といった、士分・村役人が持っていた特権を付与することにして、出金を促した。
 エ このほかに、天保八年正月に小倉城内で火災が発生し、天守閣はじめ多くの建物が焼失した。このため六郡の大庄屋は「御城御普請御用掛」に任命され、さらに一万三〇〇〇両の献金を命じられた。
 藩の慢性的な財政困難を側面から支えてきた御用借に対して、天保十二年(一八四一)に「今年ヨリ御改革ニ付、御用借類」はすべて五ヵ年据え置きを通達した。天保十五年(一八四四、十二月二日弘化と改元)江戸城が炎上し、その再建のお手伝いが命令された。幕府からの要請額は三万両であった。藩はこれについて、年貢を一割増徴して切り抜けると大庄屋たちに申し入れた。そこで、六郡の大庄屋は出会して評議した結果、二万両だけ五年賦で上納したい旨を藩に申し入れた。しかし、貧窮民を免除する形で一割の年貢増徴が強行された模様である。