① 飴屋
飴屋は屋号どおり、宝永六年(一七〇九)から飴商売を始めたことに由来している。京都郡行事村(現行橋市)に本拠を構え、二代目以降彦右衛門を称した。本姓は玉江を名乗った。初代・二代目については「孝義旌表録」(『県資』續第一輯六七四~六七五ページ)に詳しい。「初代彦右衛門は延宝七年(一六七九)生まれ壮年にいたり貧しけれど朝夕両親の食物にいたるまで大切にいたし、孝養類なかりし故」、二代藩主忠雄から褒賞された。二代目は、享保二年(一七一七)生まれ、親に孝行・質素な生活ぶりに筋奉行浦野弾蔵が米二五石を貸し付け、これをもとに彦右衛門は商売を始めたとある。同家編纂の「玉江系図」では、次のような事業と藩との関係となっている(第24図)(第46表参照)。
第24図 快哉楼よりみた飴屋本宅
第46表 飴屋の事業 |
(玉江東五郎「玉江系図」) |
年 代 | 西暦 | 事 業 ほ か | |
3代宗利 | 宝永 6 | 1709 | 飴屋商 |
享保10 | 1725 | 綿実商 | |
元文 3 | 1738 | 京都郡の綿実座の権利を草野屋から譲り受けた | |
4代宗賢 | 元文 5 | 1740 | 登り商売 |
延享 2 | 1745 | 質屋商 | |
宝暦 6 | 1756 | 酒造商 | |
明和 4 | 1767 | 居家建築 | |
安永 3 | 1774 | 酒屋建、西の蔵、酒屋中の蔵、綿打蔵 | |
安永 7 | 1778 | 醬油醸造 | |
天明 1 | 1781 | 醬油蔵建 | |
5代宗達 | 天明 3 | 1783 | 大蔵建(4間×9間) |
寛政 1 | 1789 | 醬油蔵建板場商 | |
寛政 4 | 1792 | 酒屋大蔵 |
年代 | 西暦 | 褒 賞 | 事 由 | |
6代宗慶 明和8~ 文化2 | 寛政 6 | 1794 | 苗字帯刀御免 | 難渋者救済 |
享和 1 | 1801 | 年始門松 | 行事御蔵組立 | |
文化 8 | 1811 | 5人扶持 | 家筋大庄屋相談役 | |
文化13 | 1816 | 10人扶持 | (不詳) | |
7代宗徹 安永8~ 弘化3 | 文化14 | 1817 | 子供役格 | 献金 |
文政11 | 1828 | 大庄屋格 | 献金 | |
文政12 | 1829 | 登城許可 | 献金 | |
天保 6 | 1835 | 7人扶持 | 献金 | |
天保 7 | 1836 | 札引換所 | ||
天保 9 | 1838 | 5人扶持・格式大庄屋 | 献金 | |
天保10 | 1839 | 年始熨斗目着用許可 横麻上下着用許可 | 献金 両替元銀方 | |
天保11 | 1840 | 裏付袴着用 (銀主扱いとして) | (役目) 献金 | |
天保12 | 1841 | 京都郡御収納蔵本引受方と肩衣着用許可 | ||
8代宗寿 寛政12 ~文久1 | 天保 6 | 1835 | 子供役 | |
天保 7 | 1836 | 御菓子箱 | 献金 | |
天保 9 | 1838 | 格式子供役 | ||
天保10 | 1839 | 格式大庄屋役 | ||
天保11 | 1840 | 裏付袴着用許可 銀主扱い | 今までの役目分 |
この表から分かるように、飴屋は三代目と四代目(「孝義旌表録」の初代・二代にあたる)で飛躍的に発展を遂げていることが分かる。特に四代目の彦右衛門時代には葛・蠟・鶏卵・米などを集荷し大坂など上方に自家用の舟を使って広域の商い活動をする商人に成長している。多くの倉庫群(蔵)を建てて繁栄を築いた。酒造については、天明八年(一七八八)には領内最高の九〇〇石の持ち株にまで成長した。次の五代目は寛政元年(一七八九)櫨実から生蠟を生産する板場商を始め、各種の蔵を新築・拡張して事業を充実された。
七代目彦右衛門の時、文政十一年(一八二八)京都郡の菜種座、天保十一年(一八四〇)仲津郡の綿実座を担当し、京都郡だけに通用する私札(飴屋札)を発行し、城下町商人に劣らぬほどの活躍をみたが、藩の御用借などの調達などでやがて衰退を招いていった。
② 万屋
万屋は上毛郡宇島の商人で、飴屋とならんで城下町商人を凌ぐほどの繁栄を築いた。万屋は姓を亀安、後に慶応元年(一八六五)に小今井と改称した。特に万屋(小今井)助九郎末広(文化十一年=一八一四―明治二十年=一八八七)の時が最盛期であった。先祖は、仲津郡今井村の漁民であったが、やがて正徳年間(一七一一―一七一六)に山国川の河口に位置する小祝浦に移住して漁業を営み、助九郎の祖父は同漁村の世話役を務めた。そしてやがて、漁船で下関にいって米穀の売買をするようになったという。
文政の宇島築港を契機に、小祝浦の漁民も移住すると、同家も移住した。助九郎は米穀商や酒造業を営むようになり、天保十一年(一八四〇)には宇島港に建設された上毛郡の郷蔵の御用を務めるようになった。そして銀札(「宇島引替所」扱いの札)を発行している。
③ その他の在郷商人と「預かり切手」(私札)の発行
ア 仲津郡大橋村の柏屋(本姓柏木)がある。天保十一年の藩札両替準備銀調達に際して三〇〇両を出資した柏屋勘七のことである。同家は信濃国の出身で、大塚を姓にしていた。初代の大塚助右衛門は元和元年(一六一五)に小笠原氏に仕え、二代目の時に母方の柏木の姓に改めた。三代勘八郎直則の元禄年間(一六八八―一七〇四)に、仲津郡大橋村に居住し生蠟商売を手がけ、長崎屋を屋号としていたが、のちに柏屋を称することになったという。天保十四年(一八四三)に柏屋札(銀札)を発行している。
イ 新屋は京都郡行事村の商人で、堤を本姓としている。酒造業・質屋などを営んだ。柏屋と合同で天保十四年に銭札を発行している(柏屋・新屋札)。
ウ 築城郡椎田村の商人岩田屋が同じく天保十四年に岩田屋札(銭札)を発行している。同家は井上を本姓とし、当主は官右衛門を通称していたようである。
以上、②、③は永尾正剛著「小倉藩の貨幣事情~藩札と私札~」(北九州歴史博物館『研究紀要』2)を参照した。