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田畑の作付制限令と商品作物の奨励

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近世の封建社会では、諸産業のなかで、農業がもっとも重要な地位を占めていたので、幕府や領主は、田畑と農民に対して細かに統制を加えた。
 江戸初期には、商業的農業がまだ成熟していないため、田畠の作付制限に関する法令はあまり出されていない。しかし、それでも慶長十四年(一六〇九)には、早くも田畠への煙草の作付禁止令が出されている。そして、寛永二十年(一六四三)、幕府は、田畠の売買を禁止するとともに、木綿の田方作付けと菜種子の田畠作付けを禁止した。
 幕府の田畠作付制限は、米に立脚する石高制・知行制・税制を維持するために打ち出されたもので、幕府にとっては、田方米作・畠方雑穀作が理想の作付基準であった。
 このように、幕府では、できるだけ多くの租税を納めさせ、農民が貨幣経済にまきこまれないように、本田畠に煙草・木綿・菜種子などの商品作物を栽培することを禁止した。しかし、租税の一部金納や農具代などの貨幣での支払いもあり、また、農民も農間余業としてお金になる作物の栽培を望んだので、禁止は次第に行われなくなった。
 江戸中期になると、農産物の生産高はしだいに増加した。その原因としては、新田畠の開発による耕地面積の増加、農業技術の進歩、農業知識の進歩などがあげられる。肥料では、油粕・干鰯(ほしか)などが用いられ、農具では、千歯(せんば)こきや唐箕(とうみ)・千石どおし・備中鍬(びっちゅうぐわ)などが発明され、水車・龍骨車(りゅうこつしゃ)・踏車(ふみぐるま)などの灌漑・揚水具が改良・発明されて労働力が節約され、農間余業の下地が出来た。また、穀類や野菜などの栽培方法をしるした『農業全書』をはじめ多くの農学書が出版された。
 こうして農産物の生産力はいちだんと高まり、自給自足の農業から、売るための農業も現れ、商品作物が多く栽培された。十八世紀初頭の元禄期(一六八八―一七〇四)には、農村にも貨幣経済が浸透し、八代将軍吉宗は、享保の改革で積極的に殖産興業政策を推進し、甘薯(かんしょ)・櫨(はぜ)・朝鮮人参などの栽培を奨励した。
 桑・麻・綿・油菜・楮(こうぞ)・煙草などが各地で栽培され、出羽の紅花(べにばな)、駿河・山城の茶、備中・備後の藺(い)、豊後の七島莚(しっとうむしろ)、阿波の藍(あい)など、その地域の風土に応じた特産物も生まれた。
 豊前地方では、生蠟(きろう)・菜種子・石炭・硫黄・硯(すずり)・水晶・木綿縞・小倉織・薬種類が特産として生産された。