ビューア該当ページ

藺草の栽培と畳表

1042 ~ 1044 / 1391ページ
幕府の職制に「畳奉行」があったように、豊前細川藩の職制にも前述のように「畳奉行」があった。元和七年(一六二一)の「御印帳」(熊本大学史料叢書『細川忠利裁可文書』一)の六月晦日の条に、「一、御畳奉行末村九右衛門・松村源六兵衛仰せ付けられ候事」とある。同十年(一六二四)の「諸奉行帳」(永青文庫)には、奉行の実名は明記されていないが、「一、畳奉行 一、へり布并畳指上中下日積仕るべき事」とある。畳奉行は、へり布の品定めや畳指(畳刺)職人の上・中・下の日積など、畳の表打(営繕)に関する職掌であった。
 寛永元年(一六二四)の「日帳」(同前)の八月四日の条に、「吉田源七郎に今日より御畳の儀申し付けられ候」とあり、畳奉行として吉田源七郎が任命されている。同五年(一六二八)の「諸奉行帳」には、「一、畳奉行 Tada toxi 吉田源七郎」と、藩府細川忠利の印文がローマ字で押印されている。畳奉行は、藩主の任命であったのである。また、この「諸奉行帳」をさらにめくっていくと、「一、藺田奉行 Tada toxi 当分矢嶋平三郎 Tada toxi 手伝九拾三人」と記されている。藺田奉行という、藺田を管掌する奉行がいて、当初、矢嶋平三郎が任命されている。さらに、手伝九三人も任命されたのである。
 四年前の元和十年の「諸奉行帳」には、藺田奉行という職制がないので、この間に藺草の栽培と畳表の製造が始まり、藩は、寛永五年に、藺田奉行と九三人にもおよぶ手伝を任命し、かなり大がかりな殖産興業策を推進しているのである。
 領内に藺田がなく、藺草の栽培と畳表の製作が行われていない時期には、備後表(びんごおもて)と七島莚が他領から移入された。元和八年(一六二二)の「忠利裁可」に、
 
         奉行覚
  一、畳の表上下をつもり、来年八、九月の時分、奉行にとも(鞆・備後国沼隈郡)へ目録を持せ調申すべく
    候、へりいとにも宗立様(細川忠興)の時のごとく申し付くべく候事
 
とある。また、「日帳」の寛永元年(一六二四)八月五日の条に、
 
  一、去年江戸へ、御畳の面八百畳、とも(鞆)の興兵衛より上(のぼ)せ申候、其代銀去々年の直ゟ少し高く
    御座候に付、去々年の並にさげさせ申すべきの由候へ共、年により直に高下これ有る儀に候間、興兵
    衛所よりの目録の前に代銀渡り候て然るべきの由、各吟味の上にて相渡され候事
 
とある。すなわち、元和九年(一六二三)に、細川藩は、備後表八〇〇枚を幕府への献上表として鞆より購入し、献上したのである。
 寛永三年(一六二六)の「日帳」によると、同年五月十八日、藩命で薩摩へ買物に派遣された池田次兵衛と船頭林与右衛門が、赤つぐ綱三〇ぼう、黒つぐ綱一〇ぼうとともに七島蓆(むしろ)一四〇枚を購入して小倉に帰着している。
 畳の作製のときに使う縁布(ふちぬの)(へり布)は、京都あたりより取り寄せていたようである。寛永五年(一六二八)の「日帳」の三月十八日の条に、次のように記されている。
 
  一、京都より御畳のへり十端下(くだ)り申候を、御たゝミや平三郎(矢嶋平三郎)に渡申候、送状はこれ無
    きに付、請取切手は重て仕るべき由、申され候事
 
つまり、畳のへりの調達も、畳奉行の管掌であった。このように、藺草の生産と畳表の織製は、細川藩の重要な殖産興業の一つであったのである(第44図参照)。
 現在、熊本県の八代地方は、日本一の畳表生産地である。八代は、細川三斎の転封先でもあった。
 

第44図 藺草の植え付け