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大坂回米と蔵元

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細川藩時代、豊津町域で生産された米は、収穫米の過半が年貢米として、今川河口の大橋村(現行橋市)へ人力や馬で駄送(だそう)され、そこから船で、細川氏の城下町小倉へ回漕された。
 領内各地から藩庫に収納された年貢米は、その一部が藩主や家臣層に消費され、残りの米は中央市場へ回漕された。当時の流通機構は、江戸と大坂を全国的規模での二大中央市場としたが、西国諸藩は大坂を主な米市場としていた。諸藩は、年貢米などの蔵物(くらもの)や特産物・専売品を売却して、それらを換金するために、その売捌(うりさばき)機関として大坂に蔵屋敷を設置した。蔵屋敷には、藩から派遣された「蔵役人」、蔵物の保管・出納をする「蔵元(くらもと)」などの武士や町人がいた。
 細川藩では、元和元年(一六一五)には既に、京都に京都調物奉行を、大坂に大坂米奉行を派遣している。そして、同七年(一六二一)には、「御印帳」の十月十一日の条に、
 
  一、大坂御蔵本に御付置成られ候坂本仁兵衛・石本三介・岩田甚太郎両三人、帳紙の儀積り上せ申すべき
    御諚(ごじょう)の事
 
とあるように、大坂蔵元奉行として坂本仁兵衛・石本三介・岩田甚太郎の三役人が活躍している。また、「御印帳」の同年九月十二日の条に、次のように記されている。
 
  一、大坂御米上(のぼせ)申候はば、拾の内五ツ分は木屋理右衛門尉・舛屋孫十郎両人当分に請取払申すべ
    く候、残て五ツ分は残御蔵本中へ理右衛門尉・孫十郎両人と割符仕いたし、はらわせ申すべき御意事
 
 元和七年の大坂登米(のぼせまい)高は不明であるが、積み登せ米のうち、半分を蔵本(蔵元)の木屋理右衛門尉と舛屋孫十郎に売り捌きを請け負わせ、残り半分をそのほかの蔵元中に売り捌かせている。
 元和十年(一六二四)の「諸奉行帳」には、大坂米奉行として寺嶋平兵衛と金子嘉左衛門尉の名が散見され、寛永三年(一六二六)の「日帳」では、寺嶋平兵衛・仁保太兵衛・堀長兵衛・米田久助の四役人が大坂米奉行として活躍している。また、同年の「日記」には、「中津ノ大坂米奉行」として沖津右衛門・村上善九郎の名が見える。これは、本藩の細川忠利(ただとし)「小倉領」に対し、父忠興(ただおき)の隠居領である「中津御領分」が、大坂に独自の米奉行を設置していたことを意味するものである。なお、寛永五年(一六二八)の「諸奉行帳」によると、本藩の小倉領は、大坂米奉行のほかに、物書手伝五人と蔵子二人を蔵屋敷に置いている。