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江戸回米と買米

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このように、細川藩は、中央市場の一つ大坂に、領内で生産された米穀や特産物を船で積み登せ、蔵屋敷を中心に、これらの蔵物を換金していたが、大坂市場の米相場が下落し、江戸市場の米相場が高値のときには、大坂から江戸への転送、あるいは小倉から江戸への直送を行った。「日帳」の寛永元年(一六二四)十一月二十五日の条に、
 
  一、江戸へ廻し申米四千五百石より米申付候付て、御代官・御借米奉行衆、竹内吉兵衛与今池長右衛門に
    持せ遣候事
 
とあり、また、同三年(一六二六)六月二十六日の条には、
 
  一、江戸大廻りの御米舟五艘罷戻、御舩頭衆手嶋茂太夫・上田惣吉・村上新右衛門・加来久二郎・三宅清
    介、右五人登城仕らせ候事、六月四日に江戸を出舩、昨廿五日に此地着舟仕由、申され候也
 
とある。このように、寛永元年十一月二十五日には、大坂より江戸への回米四五〇〇石の転送が行われ、同三年六月二十五日には、小倉より江戸へ直送した回米船五艘が小倉へ帰港した。これは、「江戸の米価が一両に五石四斗五升」という高値で取引されているという情報に基づく、江戸直送米の積み登せであった。藩は、単に年貢米を換金するために回米を行っただけでなく、隔地間格差による利潤追求も図ったのである。
 このように、細川藩は、大坂や江戸への米穀の移出を行ったが、その一方で米と大豆の領内移入を原則として禁止した。ただし、雑穀の領内移入は許可した。これは、領内産の米・大豆の自給による領国経済を維持・推進するためである。しかし、大風雨・洪水・旱魃(かんばつ)・虫害などの飢餓や災害のため、領産米が払底(ふってい)した場合、藩は他所米や大豆・雑穀の買い入れを行った。
 「日帳」の寛永三年(一六二六)七月九日の条に、
 
  一、下ノ関にて御買米四百石これ有る由、舟瀬里兵衛申来候に付、四百石共に当津へ廻候へと申付候事
 
とあり、同年七月十三日の条には、
 
  一、下ノ関より御米百七十石買調、積来候由、桃田助右衛門・舟瀬忠三郎両人申来候事
 
とある。寛永三年七月、旱魃に見舞われた細川藩は、七月九日に四〇〇石、同月十三日には一七〇石の下関買米を行っている。そして、「日帳」の寛永四年(一六二七)五月十三日の条に、次のような記事があるように、米価が安値で取引されている北国への米の買い付けに出かけている。
 
  一、舟瀬里兵衛北国へ遣さるるに付、三人ぶち留守の飯米に残置由、兵介・善右衛門に申理置候の由候、
    然共、米安き所に遣さるるに付、御加子衆も壱ケ月の御ふちかた何も渡遣され候間、里兵衛儀も御加
    子同前に、さき/\にてかい遣申すべき由にて、兵介・善右衛門御ふちかた渡申されず、里兵衛留守
    めいわく仕由申候付、三人ぶちをわけ候て成共、妻子かつゑざる様に渡申さるべき由、三宅清兵衛・
    橋本勘左衛門両人を使にして兵介・善右衛門へ申遣候事