ビューア該当ページ

大橋蔵と沓尾蔵

1047 ~ 1053 / 1391ページ
小倉小笠原藩になると、豊津町域の年貢米は、次の史料に散見されるように、惣社村・国作村・国分村・彦徳村の分が大橋蔵(現行橋市)に、田中村・徳政村・有久村・呰見村・下原村・綾野村・上坂村・吉岡村・上原村・光冨村・節丸村・徳永村の分が沓尾(くつお)蔵(同前)に納入された(第45図参照)。
 

第45図 豊津町域の年貢米の納入蔵

 「国作手永大庄屋日記」の文久四年(一八六四)十月三日の条に、
 
 一、米五拾四石八斗     大橋御蔵
  但、白米百三拾七俵  壱俵に付三斗五升五合入
    内
 一、弐拾石大橋
 一、五石六斗福冨
 一、五石六斗竹並
 一、六石八斗矢留
 一、三石弐斗惣社
 一、六石八斗国作
 一、六石八斗国分
 一、同三拾三石弐斗 沓尾御蔵
但、白米八拾三俵 壱俵に付右同断
    内
 一、六石八斗田中
 一、四石徳政
 一、三石弐斗有久
 一、六石四斗呰見
 一、三石六斗下原
 一、六石八斗綾野
 一、弐石四斗上坂
 合八拾八石
   但、書付御代官様并両御蔵えも出ス


 
とある。右の史料は、本年貢の納米ではないが、豊津町域の年貢米は、人力や賃馬の馬士、あるいは川舟の舟士によって大橋蔵と沓尾蔵の二つの郷蔵に、それぞれいったん収納され、そこから船で小倉城下の表蔵(おもてぐら)(小倉城内の刎橋蔵(はねばしぐら))に回漕された。
 ところで、「国作手永大庄屋日記」の文政五年(一八二二)四月五日の条に、
 
            奉願覚
  大橋
  一、御米蔵壱軒長拾弐間
横四間
       但、壱・弐・三番、三戸前分


  右の御米蔵甚損申候て、當秋納米御取納相成難く罷成候に付、何卒此節御取繕仰付られ下置かれ候様願奉
  候、仍願書差上申候、以上
     午(文政五年)四月                       大橋村庄屋
                                         治左衛門
  右の通願出申候に付、則願書差上申候、以上
                                      国作貞右衛門
       井上與三左衛門様
 
とある。すなわち、大橋蔵のうち、一番蔵・二番蔵・三番蔵の三戸前一軒が、ひどく破損していて、今秋の年貢の納米にも差し支えるので、修繕してほしい、と大橋村庄屋治左衛門から国作手永大庄屋国作貞右衛門を通じ、仲津郡筋奉行井上與三左衛門へ願い出ている。
 また、同日記の同年八月七日の条に、次のような記事がある。
 
       覚
   一、御蔵御門壱ケ所
   〆
  右は大橋御門是迄壱ケ所にて、濱出の節、納米、付出シ両様混雑仕、甚納米差支、下方一統難渋仕候に付、
  只今の御門は其侭濱出御門に仕、此度新規に表御門壱ケ所明け申度願い奉り候、何卒願の通仰付られくだ
  し置かれ候はば、有難く存じ奉り候、仍願書差上申候、以上
     午(文政五年)八月                       大橋村庄屋
                                         治左衛門
  右の通願出申候に付、則願書差上申候、已上
                                      国作貞右衛門
       井上與三左衛門様
 
この記事に、さらに、「御歎申上演説書覚」という記事が続く。
 
       御歎申上演説書覚
  一、大橋御蔵是迄御門壱ケ所ならでは御座なく、濱出等御座候節、御郡中村々より納米・付出し候ても、
    御蔵内へ付込も出来(しゅったい)仕ず、数拾疋の牛馬混雑仕、濱出し御差支にも罷成申候に付、此度
    新規に御門壱ケ所明ケ申度、別紙願書差上申候、何卒宜敷御聞通しくだし置かれ、御慈悲の上を以、
    願の通仰付られくだし置かれ候はば、重畳有難く存じ奉り候、仍演説書を以、御歎申上候、已上
     午(文政五年)八月                       大橋村庄屋
                                         治左衛門
  右の通申出仕候に付、則演説書差上申候、已上
                                     国作貞右衛門
       井上與三左衛門様
 
 つまり、大橋蔵の御門は、これまで一カ所しかないので、年貢米を大橋蔵より小倉城下の表蔵へ浜出しする際、郡内の村々よりの納米と付出しで、数十疋の牛馬が寄り集まって混雑し、蔵庭への付込みが出来にくく差し支えるので、このたび、新規に四番蔵と反別蔵との間を開けて蔵庭への付込み専用の御門一つを建ててほしい。これまでの御門(表門)は、そのまま浜出御門として使用すれば差し支えもないというのである。このようにして、他郡の郷蔵と同じように、大橋蔵の御門も二つになった。
 第46図は、「国作手永大庄屋日記」の文政五年(一八二二)正月十八日の条に散見される大橋蔵の部分図である。これによると、当時、蔵は八戸前あり、一戸は四間(七・二メートル)四方であった。三番蔵と六番蔵には、寛政元年(一七八九)の囲籾を詰め置き、七番蔵と八番蔵には、文化十年(一八一三)の囲籾が詰め置かれている。同日記の同年九月五日の条に、大橋蔵の蔵役人として御蔵方三人(紫藤茂左衛門・原田太郎左衛門・粟屋利吉)、御手代四人(市木吉蔵・岩崎丑右衛門・小沢半兵衛・柳井義左衛門)、沓尾蔵の蔵役人として御蔵方三人(井村十内・大森彦六・吉元重次郎)、御手伝三人(波多間半右衛門・喜久田丈吉・我有牧右衛門)の名が見える。
 

第46図 御蔵絵図面差出候扣

 第47図は、「大橋御蔵所の絵図」(豊津高校小笠原文庫所蔵)である。長さ一六間(二八・八メートル)×横四間(七・二メートル)の蔵一軒(四間四方の蔵四戸)と、長さ一二間(二一・六メートル)×横四間(七・二メートル)の蔵一軒(四間四方の蔵三戸)が東西にあり、そして中出蔵や廻シ蔵・荒蔵のほか、御役人部屋・御手代部屋・表門・浜出門・御番所などが長方形に配置されている。この絵図の作成年代が明記されていないが、図中に、表門と浜出門の二つの門が描かれているので、浜出門が新設された文政五年八月以降のものと思われる(第48図参照)。
 

第47図 大橋御蔵所の絵図


第48図 大橋御蔵所の復原図