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年貢米の藩庫納入

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豊津町域をはじめ、仲津郡の年貢米は、このように大橋蔵と沓尾蔵に、いったん納入された。田川郡の年貢米は、赤池・糒(ほしい)・高原・採銅所・新所・糸・油須原の郷蔵に、京都郡は行事蔵、築城郡は椎田蔵、上毛郡・新田藩は八屋蔵・宇島蔵に、そして企救郡は本蔵(小倉城内の刎橋蔵)に、それぞれ納入された。村から郷蔵までの搬入は、五里(二〇キロメートル)以内は百姓の自前、五里以上遠以上遠方の分は藩より駄賃が出たが、該当した村は田川郡の、それも一部の村だけであった。
 第49図は、幕末・維新期の作と思われる「行事・大橋・宮市村絵図」(行橋市教育委員会所蔵)である。現在の行橋市の中心部を描いたこの絵図には、当時の町並みと、一軒一軒の家の名前が、その屋敷の大小まではっきり分るように、手書きされている。
 

第49図 幕末・維新期の行事・大橋・宮市村絵図

 行事川(現在の長峡川)河口の大橋側には、長井手永や国作手永などの仲津郡の年貢米の一部をいったん収納した「御蔵所」(郷蔵)があり、その近くに「長井手永宿」や「国作治左衛門役宅」(国作手永大庄屋役宅)、そして「牢屋」がある。
 一方、行事川河口の行事側には、京都郡の年貢米を収納した「御蔵所」(郷蔵)があり、その近くに「牢屋」や「黒田手永宿」・「久保手永宿」・「新津(あらつ)手永宿」・「延永(のぶなが)手永宿」など京都郡の四手永宿が軒を並べている。そして、行事浦川橋の近くに「社倉蔵」があった。
 行事川にかかる橋は万年橋が一本あるだけで、豊前街道が南北に曲がりくねって走っている(第50図参照)。
 

第50図 幕末・維新期の行事・大橋・宮市村絵図の復原図

 ところで、各郡には、本納分の年貢を納める郷蔵のほかに、郡土蔵という倉庫があった。この蔵には、新地見掛米、二朱五厘米、五分種子利米、新薪札代、鶏卵代、屋敷床新開米、川成引戻米などが納められた。この郡土蔵は、郡代以下郡方役人の管轄の下に、農村への融通や救済に重要な役割を果たした。小倉城下の表蔵に直納する「表御土蔵納」には、銀小物成、糠・藁代米などがあり、別納として出精米、浜出水上などがあった。
 藩の役人は、年貢を決定するため各郡の郷蔵を見分し、宿泊したそれぞれの役宅で、その郡の年貢を決定した。これを「御免極」といった。次に、文化十三年(一八一六)の御免極の史料(「国作手永大庄屋日記」九月十一日の条)を例示しておこう。
 
     御免極休泊
  九月十三日 朽網村之内新屋鋪休
御免極御蔵見分行事泊
    十四日大橋・沓尾御松原林
御免極蔵見分椎田泊
    十五日小祝休 同所見分
御免極八屋泊り
    十六日八屋 椎田御弓ノ師休
御免極蔵見分大橋泊り
    十七日新町休 七曲御越
御免極香春泊り
    十八日赤池御蔵見分成竹休
御免極香春泊り
    十九日高原御蔵見分呼野休
御免極片野小休
   引取
以上
        覚
  一、惣人数弐拾弐人
    拾五人壱宿
    七人下宿
 〆


 
 藩役人の郷蔵検分と御免極の廻郡にあたって、村役人(大庄屋・庄屋)は、「田畠御水帳」・「田畠名寄帳」・「田畠坪付帳」・「田畠新地検地帳」・「山鑑」などを役宅に必ず備えなければならなかった。年貢の納期は、年によって遅速はあるが、初納は大体九月十一日前の定めであり、早稲(わせ)は一番収納、中稲は二番収納、晩稲(おくて)は皆済納となり、納入期限は十二月十日であった。
 文化三年(一八〇六)八月三日の「觸」(「長井手永大庄屋日記」・九大文化史研究施設所蔵)に、次のような記事がある。
 
       觸
  当秋年貢米来ル(八月)十七日初納申付候、これに依り、御郡中諸商人札来ル(八月)十五日悉取揚、大庄屋
  共手前に預り置、勿論御所務内商人共、村内徘徊致候はば、廻り役のもの差出し、召捕せ候条、銘々稠敷
  申聞せ候様御郡中御申觸これあるべく候、以上
      八月                               (郡代)伊藤勘解由
        (仲津郡郡奉行)井上与三左衛門様
 
 右の史料のように、藩は、初納前に諸商人札を取り上げて大庄屋の元で保管させ、年貢収納期間は商人が村内に立ち入ることを禁じ、私穀の売買を禁止した。また、領内の津々浦々で「津留め」を実施して米穀の領外流出を取り締まったのである。そして、年貢完納後、大庄屋から諸商人札がそれぞれに返却された。年貢納入の最終責任者である各手永の大庄屋たちは、十二月の末ごろに小倉城下の紺屋町(企救郡は別)にある郡屋に出張して、最後の決済業務に従事しなければならなかった。