ビューア該当ページ

豊津の酒株仲間と造石高

1059 ~ 1064 / 1391ページ
豊津町域で生産された収穫米のうち、過半は年貢米として、小倉の藩庫に収納されたが、残りの豊津米の中から、例えば、享和三年(一八〇三)には九〇石、嘉永三年(一八五〇)には五五石の酒造米で酒造りが行われた。
 酒造りは、誰(だれ)でも許可なく出来る、というものではなかった。江戸時代は「米の経済」ともいわれるように、米を主原料とする酒造には幕府の保護と統制が行われ、酒造人になるには藩を通じて、幕府の勘定所の許可が必要であった。
 「長井手永大庄屋日記」の天保十四年(一八四三)十二月六日の条に、次のような記事がある。
 
  此度公義(幕府)よりの御鑑札酒造人共へ相渡候に付、左の通りに致し方宜敷かるべきの評議に付、案書の
  通り相認差出さるべく候、尤早々右伺書差出相成られ候様差計らるべく候、已上
西正左衛門      
     十二月六日
       大庄屋中
 
       御伺申上覚
  此度御勘定所より酒造人え御鑑札壱枚宛御渡下置かれ頂戴仕候、然る処、火・水の難も計り難く御座候に
  付、恐れながら、上え御預申上置度御伺申上候、此段宜敷仰上られ下さるべく候、以上
                         何郡
      卯                  何村
       何月                  酒造人
                            誰 印
                         同村庄屋
                            誰 印
                         何村
                           酒造人
                            誰 印
                         同村庄屋
                            誰 印
                         ――――
                         ――――
  右の通御申上候間、宜敷仰付られ下さるべく候、以上
                        懸り
                          大庄屋
                            誰 印
                           ――――
                         ――――
      酒造御鑑札渡手板
                       大橋村冨田屋
                            吉九郎
                       代替當時
                            元治郎
                       同村松屋
                            傳蔵
                        (中略)
  右の通
       卯
        十二月
 
 つまり、このたび、幕府の勘定所より小倉小笠原藩内の酒造人に対し、酒造許可の鑑札が一札ずつ下付されたが、鑑札が火災や水難で破損しても悪いので、藩へ預け置きたい、と酒造人・庄屋・大庄屋の連名で「御伺」をたてた形式を採っている。このときに下付された豊津町域の酒造人は、光冨村百姓仁右衛門と惣社村百姓治右衛門の二人であった。
 享和三年(一八〇三)の「株高酒造控写」(犀川町玉置文書)に、
 
  一、右酒造御改のため日田御代官所より御役人相廻り候趣に付、左の通相心得、不都合これ無き様、精々
    手堅御申付これ有るべく候、尤江戸表よりも御役人不時に見分の義もこれ有るべき趣相聞へ候
 
とあるように、日田代官、時には幕府役人の酒造改めが行われた。
 第73表は、享和三年と文化二年、天保十年、同十四年、弘化四年、嘉永三年時点における豊津町域の酒造人と酒造米高・当時造石高・運上銀を表示したものである。
第73表 豊津町域の酒造業
年 号村名酒造人名酒造米高当時造石高運上銀

享和3
(1803)

国作
光冨

恒助
仁右衛門

100
80

50
40

86
86
文化2
(1805)
国作
光冨
代蔵
仁右衛門
90
80
  
天保10
(1839)
国作
光冨
惣社
雄平
仁右衛門
治右衛門


大橋村與九郎より酒造株を借受(文政3年より10ヵ年間)
天保14
(1843)
惣社
光冨
治右衛門
仁右衛門
弘化4
(1847)
光冨
節丸
仁右衛門
半兵衛

弘化2年、下伊良原村治兵衛より酒造株を譲受
嘉永3
(1850)
節丸半兵衛(80)55運上銀制中断中
「長井手永大庄屋日記」(享和3年・天保10年・同14年・嘉永3年)、「仲津郡節丸手永酒造人御鑑札写御改帳」(弘化4年)による。

 享和三年の町域の酒造人は二人で、酒造米高一八〇石の半分にあたる九〇石の酒を造り、一七二匁の運上銀を上納している。
 嘉永三年の酒造人は一人(節丸村半兵衛)で、酒造仕込米高が五五石であるが、酒造米高が不明である。しかし、同年の長井手永山鹿村伴助の当時造石高(仕込米高)五四石に対する酒造米高が八〇石であるので、節丸村半兵衛の場合も、酒造米高は八〇石と考えられる。
 酒造米高に対する当時造石高の割合が、享和三年には二分の一、嘉永三年には三分の二になっている。これは幕府が出した、二分一減石令(半造)、三分一減石令(三分の二造酒)によるものである。
 幕府の寛政元年(一七八九)八月の触れ(「御触書天保集成」)と享和三年三月十三日の「酒造之義度々従 公義被 仰出候覚」(九大文化史研究施設所蔵)によると、諸国の酒造米は元禄十年(一六九七)の酒造米高を基準高として、正徳期(一七一一―一六)にはその三分の一、さらに五分の一造酒にまで制限された。宝暦期(一七五一―六四)には一時、元禄期(一六八八―一七〇四)の造石高を上限に生産規制を解除したが、天明の飢饉後、天明七年(一七八七)には前年造酒実績高の三分の一造酒に制限された。
 そして、寛政六年(一七九四)には、諸国が洪水の被害を被ったため天明六年以前までの酒造米高の三分の二造酒に制限されたが、寛政七年から享和二年までは定例どおり皆造された。しかし、享和三年は、前述のごとく、幕府勘定所より二分一減石令が出され、半造となった。その後、文政十三年(一八三〇)は三分の二造酒、天保五年(一八三四)は三分の一造酒、嘉永三年は三分の二造酒と推移した。
 第74表は、小倉小笠原藩の酒造人と酒造米高・運上銀あるいは冥加銀(みょうがぎん)を表示したものである。元禄十四年に、領内で五五人いた酒造人は、天明八年には一〇三人と、ほぼ倍増している。しかし、天保十三年には一〇四人と、一人増えているだけである。
第74表 小倉小笠原藩の酒造
年 代仲津郡領内合計
酒造人数酒造人数酒造米高運上銀冥加銀
元禄14年(1701)55 50 
石 斗 
天明 8年(1788)17 103 28,976. 8 
寛政元年(1789)103 
石 斗 升 
文化 2年(1805)103 14,760. 6. 4 
貫  目 
天保13年(1842)104 11,297. 7. 4 12.40 
「豊前國小倉領酒造米高并休株高之覺」(文化2年3月)、『福岡県史』第3巻下冊による。

 小倉藩全体の酒造米高は、天明八年が二万八九七六石八斗で、ほかに酒造休高が三三〇〇石であった。天保十三年は一万一二九七石七斗四升で、天明八年の酒造米高の三九%に減石しているが、これは文化元年(一八〇四)の酒造米高十分六減石令(十分四造酒)によるものである。