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運上と冥加

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ところで、元禄十四年(一七〇一)に、領内の酒造業者五五人は、運上銀として銀五〇貫目を納めているが、天保十三年には領内の酒造業者一〇四人が、運上銀の代わりに冥加銀一二貫四〇目を納めている。これは、なにを意味するのであろうか。小倉藩の運上銀と冥加銀、そして酒造株について、次に考えてみよう。
 幕府や藩は、商工業に従事する同業者たちが結合した仲間を許可し、生産と販売の独占的な権利を付与した「株」をもつ商工業者の団体として株仲間を保護・統制した。
 小倉小笠原藩では、元禄十年(一六九七)に、酒造同業者に対して酒造株が許可され、その独占的な営業権に対する反対給付として運上銀を上納させた。四年後の元禄十四年には、既に株仲間として公認されていた酒造業者五五人が、運上銀として銀五〇貫目を年四回(納入期限は、三月朔日~十日、五月朔日~十日、七月十日~二十日、十二月朔日~十日)に分けて上納した。運上銀の上納場所は小倉城下の表蔵であったが、享保十七年(一七三二)以降、郡中からの運上銀は各郡土蔵に納めることになった。
 文政八年(一八二五)七月二十二日、藩は酒造に関して、次のような触れを出している(「長井手永大庄屋日記」)。
 「上方酒」や「他領の酒」を買い請け、その酒で商いをしてはいけないこと、「地売酒屋共」が酒の値段を引き上げたり、あるいは「升目」(酒量)を減らしたり、交ぜ物などをしてはいけない、とした上で、次のように定めている。
 
  一、当御領酒造のもの是迄旅え売出候もの当年一ケ年売出し差留め候間、地売致すべく候事
  一、農業助勢のため酒造存立(ぞんじたて)候ものこれ有り候はば、願出ずべく候、新株たり共、詮議の上、
    申付くべく候
 
 すなわち、当年は、酒の旅売りを禁じ、地売りすること、農業助勢のため新しく酒造を希望するものには、新株を許可する、というのである。藩は、新しい株仲間の公認で、殖産興業の振興と財政増収を計ろうとしたのである。
 小倉藩では、この酒造株のほかに、株仲間の仲間株として、主なものに醬油株・酢製造株・質屋株・薬種株などがあった。
 天保十二年(一八四一)、幕府は、株仲間の独占が物価騰貴になる、という理由で、株仲間の解散令を発した。西国諸藩の多くは、この幕令に抵触して株仲間を存続させたが、譜代であった小倉小笠原藩はこれに従い、株仲間と運上銀制を廃止した。翌十三年からは酒造株制は廃止され、酒造稼(かせぎ)の名目となり、同十四年には酒造家の名前調査が行われた。
 小倉藩では、運上銀制に代わるものとして冥加銀制を早速導入した。同十三年に、領内の酒造業者は一〇四人が、運上銀ではなく、冥加銀一二貫四〇目を上納するようになったのは、このような経緯によるものであった。嘉永四年(一八五一)、幕府は、株仲間の再興令を出し、小倉藩でも株仲間と運上銀制が復活したが、明治五年(一八七二)、ついに明治新政府は、株仲間の解散を命じ、小倉藩でも株仲間と運上銀制が消滅した。
 次に、「元豊津縣管轄酒造人・造高名前帳」を基に、第75表を示しておこう。この史料の作成年代は、明治五年三月、作成者は、仲津郡(現京都郡)の旧節丸手永大庄屋節丸二作である。豊津県は、明治四年十一月十四日に、中津県・千束県とともに小倉県になっているので、この史料が作成された時点では、既に小倉県になっているのである。
第75表 元豊津県の酒造人と酒造高
明治5年(1872)3月
酒造高田川郡京都郡仲津郡築城郡上毛郡元豊津県
(石)(軒)(軒)(軒)(軒)(軒)(軒)
400
300
290
280
260
250
240
220
200
180
170
160
15010 
130
120
100
 80
 70
 60
 5010 
 40
 30
 20
 10
25 25 23 12 93 
「元豊津縣管轄酒造人・造高名前帳」文書による。

 この一覧表によると、元豊津県の田川・京都・仲津・築城・上毛の五郡で、明治四年に九三軒(あと一軒は休造)の酒造人が一万三五〇〇石の造酒を行っている。平均して一軒一四五石の酒造高に当たる。最高は、田川郡猪膝町の中村元次郎で四〇〇石、最低は一〇石だった。
 仲津郡は、酒造人二五軒、酒造高三一〇〇石で、田川郡とともに酒造りが盛んな土地柄であった。