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特産地豊津

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近世の豊津地域は、菜種子の豊かな生産地帯であった。「あぶらな」の種子から採取した菜種油は、食用油として、また、灯火用油として貴重な生活必需品であった。菜種油の原料である菜種子は、農村地帯にとって重要な商品的農業作物の一つであった。小倉藩の中で、仲津郡は、菜種子の生産が盛んな地域であるが、とりわけ節丸手永は生産量が多かった。
 「国作手永大庄屋日記」の寛政十一年(一七九九)九月朔日の条に、
       覚
  一、菜たね拾石五升平嶋手永
  一、同  七石八斗七升壱合五勺元永手永
  一、同  八石八斗五升五合五勺国作手永
  一、同  五石四升九合長井手永
  一、同  六拾七石弐斗三升三合節丸手永
  〆九拾九石五升九合
  右の通菜種子當年出来立の分、手永/\村々より此節迄出払申候に付、買込ミ高書付差上申候、以上
      未(寛政十一年)大橋町松屋
      善次郎
       八月


とある。これによると、節丸手永が六七石二斗三升三合と、一番多く、六八%を占め、国作手永は八石八斗五升五合五勺で、九%を占め、両手永を合わせて七七%の生産高を上げている。すなわち、仲津郡では、豊津町域は、犀川町域に次ぐ主要な菜種子生産地帯であったのである。
 寛政十一年に一〇〇石近くあった仲津郡の菜種子の生産高は、その後低迷したようで、三二年後の天保二年(一八三一)、藩は、菜種子の生産確保と奨励のため、領内の六郡に生産目標高を提示した。仲津郡の目標高は二〇石で、それを郡内の五手永に次のように割り当てている。節丸手永に一四石、長井手永に二石七斗、国作手永に二石、平嶋手永に八斗、元永手永に五斗。仲津郡の菜種子の生産高は五分の一に激減したが、相対的に、豊津町域が主要な菜種子生産地帯の一つであったことには変わりがなかった。
 第76表は、明治二年(一八六九)の豊津町域の菜種子出来高を表示したものである。町域では、田中村・徳政村・節丸村・綾野村・光冨村・有久村の各村が四石から二石までの出来高を数える生産地であった。
第76表 豊津町域の菜種子出来高
手 永村 名生産高
節 丸石 斗 
吉 岡0. 2 
上 原1. 3 
光 冨2. 0 
節 丸2. 5 
国 作国 作1. 3 
惣 社0. 3 
有 久2. 0 
下 原0. 4 
田 中4. 0 
呰 見0. 7 
綾 野2. 1 
国 分0. 6 
上 坂1. 0 
徳 政3. 0 
平 島彦 徳1. 0 
徳 永0. 7 
16か村23. 1 
「仲津郡村々諸産物出来高書上帳」(明治2年)による。