第51図 菜種子の流通機構
まず、寛政十一年の例を基に、A型について見てみよう。「国作手永大庄屋日記」の寛政十一年(一七九九)五月十二日の条に、
菜種子座手先 | ||
大橋町松屋 | ||
国作手永 | 米蔵 | |
同 松屋 | ||
元永手永 | 松治郎 | |
續命院村 | ||
長井手永 | 和助 | |
横瀬村 | ||
節丸手永 | 伴蔵 | |
今井村 | ||
平嶋手永 | 久兵衛 |
とある。農家で生産された菜種子は、その生産地の手永ごとに割り当てられた菜種子座手先によって買い集められ、仲津郡の菜種子座である大橋町松屋善次郎の元へ集荷された。菜種子座へ集荷された菜種子は、地元に手絞板場職(てしぼりいたばしょく)がいる場合は、その一部が板場職によって菜種油に製品化され、油粕は肥料として活用された。寛政十一年には、仲津郡五手永より九九石五升九合の菜種子が菜種子座松尾善次郎の元へ集荷されたが、そのうちの三一石五斗を、行事村の喜兵衛船で大坂の種子座池田屋五兵衛へ積み登せている。この件に関しては、「国作手永大庄屋日記」寛政十一年八月二十六日の条に、次のように記されている。
覚
荷主
一、菜種子七拾表(俵) 善次郎
但、壱俵に付四斗五升入
石数三拾壱石五斗
右は此度行司喜兵衛舩にて大坂池田屋五兵衛方へ積登申たき段、願出申候に付、御伺申上候、以上
大橋村
(庄屋)九平次
次に、天保七年(一八三六)の例を基に、B型について見てみよう。
仲津郡のうち、長井手永の村々で生産された菜種子は、蒔種子囲分(まきたねかこいぶん)をのぞいた四石八斗七升二合六勺が菜種子座崎山村仁七に買い集められた。仁七は、そのうちの二石四斗三升六合三勺を蓑島浦の積登種船頭利兵衛の元へ寄せた。他方、節丸村の菜種子は、蒔種子囲分をのぞいた五石五斗が菜種子座下伊良原村曽右衛門に買い集められた。曽右衛門は、そのうちの二石七斗五升を手絞り分として板場職に売り、残りの二石七斗五升を蓑島浦船頭利兵衛の元へ預けた。こうして利兵衛の元に集荷された仲津郡の菜種子は、彼の持船永福丸に積み込まれ、大坂の種子座(菜種子問屋)大和屋庄助へ売り渡された。大和屋庄助は、各地から集荷した菜種子を絞油屋へ売却した(第52図参照)。そして、製品化された菜種油は、食用油として、あるいは灯火用油として消費者の手に渡った。
第52図 油絞り職人
菜種油を絞る。油粕も肥料として重要である。
『古文書参考図録』による。
次の史料は、「国作手永大庄屋日記」天保九年(一八三八)十一月二十四日の条に散見される菜種子の「売分仕切」である。大坂北浜二丁目の菜種子問屋大穀屋治郎兵衛より仲津郡崎山村の菜種子座仁七と、蓑島浦の種登積船幸徳丸の船頭茂兵衛へ宛てた菜種子の売捌(さば)き仕切である。
御賣分仕切
一二 菜種弐俵
三斗壱升四合廻り
内四合 土砂引
正味六斗五升
九拾弐匁かへ
代五拾七匁四厘
内壱匁 水上
又弐匁八分 運賃
〆五拾三匁弐分四厘
右の通賣捌仕切銀子相渡、此表出入無く相済申候、以上
大穀屋治郎兵衛 判
戌八月六日
埼山村仁七殿
幸徳丸茂兵衛殿