天保十一年、小倉藩は、年貢米収納事務に関する「御改法」を発布するとともに、小倉城下宝町一丁目に産物会所を設置し、領内諸産物および残米の売買を行事(現福岡県行橋市行事)の飴屋(玉江家)と宇島(うのしま)(現福岡県豊前市宇島)の万屋(よろずや)に受け負わせた。田川・京都・仲津の三郡は飴屋、築城、上毛の二郡は万屋が取り扱うようになった(第53図・第54図参照)。
第53図 菜種子手絞免許札
第54図 菜種子畠の写真
「長井手永大庄屋日記」天保十四年(一八四三)八月六日の条に、同十一年の仲津郡の菜種子の集荷・売却に関する記事が見える。
仲津郡 | ||
稲童村・松原村・真菰村 | ||
去子年(天保十一年) | 有久村・大坂村・崎山村 | |
一、菜種作高拾八石八斗弐升 | 柳瀬村・喜多良村・鐙畑村 | |
上伊良原村・下伊良原村・帆柱村 | ||
扇谷村 | ||
〆 | ||
内 | ||
一、七斗弐升 | 蒔種に囲置候分 | |
一、三石 | 手絞に仕候分 | |
残拾五石壱斗 | ||
内 | ||
一、四石弐斗 | 小倉綿屋茂兵衛え売渡申候 | |
一、四斗 | 飴屋儀兵衛え売渡申候 | |
一、拾石五斗 | 万屋助九郎え売渡申候 | |
〆 | ||
卯七月(天保十四年) |
さらに、同日記天保十四年七月十九日の条に、同十三年の仲津郡の菜種子の集荷・売却に関する「覚」がある。
覚 | ||||
国作手永 | ||||
大橋村 | ||||
一、菜種子三石 | 勘七 | |||
但、去寅年(天保十三年)買集、手絞仕申候 | ||||
長井手永 | ||||
崎山村 | ||||
一、同五石 | 弥兵衛 | |||
但、去寅年買集、万屋助九郎へ売渡申候 | ||||
同村 | ||||
一、同四石弐斗 | 市平 | |||
但、右同断、小倉綿屋茂兵衛へ売渡申候 | ||||
節丸手永 | ||||
下いら原村 | ||||
一、同四斗 | 治作 | |||
但、去寅年買集、飴屋儀兵衛え売渡申候 | ||||
上いら原村 | ||||
一、同五石五斗 | 常蔵 | |||
但、右同断、万屋助九郎へ売渡申候 | ||||
〆 | ||||
卯七月(天保十四年) |
天保十一年の産物会所設置後、長井手永で生産された菜種子は、崎山村市平の集荷分が小倉の綿屋茂兵衛へ売り渡され、崎山村弥兵衛の集荷物が宇島の万屋助九郎へ売り渡された。他方、節丸手永の菜種子は、下伊良原村治作の集荷分が行事の飴屋儀兵衛へ売り渡され、上伊良原村常蔵の集荷分が宇島の万屋助九郎へ売り渡された。こうして、領内の菜種子を買い集めた綿屋・飴屋・万屋らの菜種子売捌方(うりさばきかた)は、それぞれの持ち船で、大坂の菜種子問屋へ菜種子を回漕した。