第77表 豊津町域の綿実出来高 |
手 永 | 村 名 | 生産高 |
節 丸 | 石 斗 | |
吉 岡 | 0. 7 | |
上 原 | 1. 3 | |
光 冨 | 2. 0 | |
節 丸 | 0 | |
国 作 | 国 作 | 1. 6 |
惣 社 | 0. 8 | |
有 久 | 0. 5 | |
下 原 | 0. 4 | |
田 中 | 1. 5 | |
皆 見 | 1. 0 | |
綾 野 | 1. 2 | |
国 分 | 2. 0 | |
上 坂 | 1. 0 | |
徳 政 | 0. 8 | |
平 嶋 | 彦 徳 | 0. 8 |
徳 永 | 1. 0 | |
計 | 16か村 | 16. 6 |
「仲津郡村々諸産物出来高書上帳」(明治2年)による。 |
町域では、光冨村・国分村・国作村・田中村・上原村が、綿実(わたざね)(繰綿をつくった残りの綿の実―綿の実油を絞る)の産地であった。
享保十年(一七二五)、仲津郡行事村の飴屋(玉江家)彦右衛門は、綿実を買い集める商売を始めた。その後、寛政十一年(一七九九)には、大橋村の苅田屋清助が仲津郡の綿実座を請け負っている。すなわち、「国作手永大庄屋日記」同年四月十七日の条に、
覚
荷主
一、綿実百俵 清助
但、壱石五斗入
石数百五拾石
〆
右の通行司喜兵衛舩にて兵庫淡路屋庄三郎方へ積登申候、依て御注進申上候、以上
未(寛政十一年)
大橋村
四月十七日九平二
右の通申出候間、御届申上候、以上(国作手永大庄屋)国作貞左衛門
(仲津郡筋奉行)村上八郎様とある。苅田屋清助の元へ集荷された綿実のうち、同年四月十七日には、一五〇石の綿実が、行事村の喜兵衛船で兵庫の綿実問屋淡路屋庄三郎の元へ回漕されている。また、同年の七月五日にも、同様にして綿実九〇石が兵庫の淡路屋庄三郎の元へ積み登せられている。
その後、行事村の飴屋は、苅田屋清助から仲津郡の綿実座を買いとり、さらに田川郡の綿実座を香春町の利右衛門から十カ年借り受け、京都・仲津・田川三郡の綿実座を独占していったのである。