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職人・商人と免許札

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幕府や領主は、商業・工業・漁業その他の生業に従事する個人や株仲間・座に特権的保護ないし利権を与えるとともに、その経済活動を統制し、反対給付として免許税や営業税に当たる冥加銀あるいは運上銀を上納させた。
 小倉小笠原藩でも、職人や商人に、その営業権を公認した証(あか)しとして免許札を発行した(第56図参照)。当藩では、この免許札のことを「免札(めんさつ)」・「札(ふだ)」・「商人札」・「商札」・「棒札」などと呼んでいた。
 

第56図 免許札―投網札・室屋札・質屋札・小垂札―

 免許札は、その身一代限りの営業権を保証するもので、他人へ譲渡したり、貸与することを禁じた。したがって、無札のものは商売ができなかった。
 次の史料は、文化十三年(一八一六)七月に、国作手永国作村徳右衛門が揚酒場の免許札を藩へ申請したときの「覚」(「国作手永大庄屋日記」)である。
 
          覚
   一、揚酒場御免札    壱枚
  右は私儀、此度揚酒商賣仕度御願申上候、御慈悲の上を以、願の通仰付られ下置かれ候はば、有難く存
  じ奉候、其のため願書差上申候、以上
国作村願主         
      子(文化十三年)七月
徳右衛門      
同村庄屋          
藤四郎      

  右の通願出申候に付、則願書差上申候、以上
国作甚左衛門        

       (郡奉行)井上与三左衛門様
 
 藩の勘定所は、申請内容を検討の上、免許札を願主に下付した。免許札を交付され、職人あるいは商人になると、その職種によって決められた法定の運上銀を藩庫へ納入する義務が課せられた。第79表は、明治元年(一八六八)の免許札の種類と運上銀を表示したものである。例えば、揚酒場札を交付された職人は、年間四三匁、楮皮仲買札は八匁六分、綿実座札は四三匁、菜種子手絞札は一五匁の運上銀を上納しなければならなかった。
第79表 諸免許札
明治元年(1868) (単位 匁)
免許札運上銀
大店商四三   
中店商二〇   
小店商一五   
蜜商四三   
魚商三   
鍛冶一〇   
猪口酒一二   
水車屋四三   
桶屋一〇   
瓦焼三〇   
酢手造四三   
綿実手絞一五   
塩商二五   
蠣灰焼二一・五 
線香手製一〇   
素麵手製四・三 
土人形手製四・三 
古手商三五   
塗物細工二一・五 
稲扱四三   
鋳掛一〇   
薬商四三   
櫛細工四・三 
焼物荷商四・三 
油店売八・六 
摺臼造り一〇   
鬢附手製八・六 
焼麸手製四・三 
石灰焼二〇   
杓子二・五 
茶手製八・六 
諸商人宿八・六 
一   
揚酒場四三   
醬油手造商四三   
板場四三   
合薬四三   
雑菓子二四   
紺屋一〇   
質屋御礼銀
紙漉一五   
大工道具鉄物商一〇   
魚問屋四三   
商棒宿町一〇   
 同田舎二〇   
室屋宿町一〇   
 同田舎二〇   
藍問屋二〇   
櫨実仲買八・六 
鋤鎌商五   
鋳物師四三   
塩焼〇・五 
肥し物商八・六 
檜物細工八・六 
焚炭商一五   
綿実商銀一枚
荒葛仲買八・六 
楮皮仲買八・六 
煙管張四・三 
煙草切商四・三 
犬ケ嶽薪馬五   
 同 歩行三   
轆轤細工二一・五 
綿実繰商一〇   
材木問屋二〇   
鍋釜商三〇   
小米商三〇   
鉄物細工一五   
醬油荷売七   
瀬戸物商一五   
草木実手絞四三   
醬油荷商七   
綿実座四三   
材木商二〇   
引割下駄四・三 
入舩問屋銀一枚
綿替木綿商一五   
綿打〇・五 
田舎店八・五 
附木二・五 
目薬四・三 
竹ノ皮笠商四・三 
菜種子手絞一五   
白保紙漉八・六 
血道振薬三〇   
鉄鋼商一〇   
蠟燭掛商四・三 
薪鍬風呂二・五 
竹細工商四・三 
産物仲買一五   
唐芋四・三 
一〇   
竹木商二〇   
膏薬八・六 
油積入四三   
雑魚一   
二・五 
反古買一〇   
「国作手永大庄屋日記」による。

 第80表は、慶応四年(一八六八)の節丸手永の諸商人札(免許札)を、一覧表にしたものである。
第80表 節丸手永の商人札慶応4年(1868)
現在
豊 津 町犀   川   町節丸
手永
   村名
免許札
吉岡上原光冨節丸末江下高
屋 
内垣犬丸木井
馬場
上高
屋 
横瀬下伊
良原
上伊
良原
帆柱
商棒
魚商一二
塩商
室屋
雑菓子商
反古買方
田舎店一七
小店一四
産物中買
紺屋
桶屋一六
鍛冶屋
紙漉
綿打商
酒造
揚酒場
猪口酒商
醬油手造
菜種子手絞
板場
水車
焼物釜
鍬風呂差
引割下駄
竹細工商一三
摺臼商
二二一九二三一四一二一五一〇一四三
「国作手永大庄屋日記」による。

 幕末、明治維新期には、節丸手永でも紺屋や鍛冶屋・桶屋・醬油手造・竹細工などの家内手工業を中心とする職人が活躍し、商人の取り扱い商品も多様化し、在方商業の発達が顕著になっている。節丸手永の中でも、光冨村には、慶応四年時点で、桶屋二軒、醬油手造一軒、猪口酒商二軒、竹細工商四軒の家内手工業がみられ、そして、魚商三軒、塩商二軒、雑菓子商一軒、田舎店二軒、小店五軒があった。十一年前の安政四年(一八五七)の光冨村の竈数が七七軒であるので、そのうちの二二軒、つまり、二八・六パーセントに当たる家が職商人であったのである。豊津町域を南から北へ蛇行しながら流れる祓川の右岸に点在する光冨村は、節丸手永の大庄屋節丸(勢島)仁右衛門の居住村でもあった。伊良原谷より下った道筋は、光冨村で高瀬方面と上坂方面と続命院方面に分岐した。したがって、光冨村には在町的職種の家が多かった。
 近世初期から幕末まで節丸手永の大庄屋居住村であった節丸村も、光冨村同様、藩主廻郡の「御道筋」に当たり、安政四年には竈数一〇四軒という大きな集落であった。節丸村には、酒造一軒、紺屋一軒、鍛冶屋二軒、綿打商一軒、竹細工商四軒の家内工業と、室屋一軒、水車一軒、商棒二軒、雑菓子商一軒、田舎店三軒、合わせて一九軒の職商人たちが居住していた。嘉永元年(一八四八)の「仲津郡村々申諸取立本帳」(勢島文書・北九州市立歴史博物館所蔵)によると、節丸村は、銀小物成として鉄砲札一〇匁、投網札八匁、筌札一匁二分の合わせて一九匁二分を、光冨村は、投網札二匁を上納している。山間部を奥地に持つ節丸村は、山林生産とともに狩猟も盛んであった。また、祓川右岸の節丸、光冨の両村では、川漁も行われていた。
 一方、同じ節丸手永の中でも、吉岡村は、安政四年時点の竃数が二一軒というこぢんまりした集落で、慶応四年には小店が一軒あった。また、上原村も、竃数二〇軒に対し、綿打商が一軒、小店が一軒であった。
 慶応三年(一八六七)六月の「仲津郡竃数・人・牛馬数書上大寄帳」(友石文書)によると、節丸手永の諸職人は六〇軒、御免札受は三二軒、国作手永の諸職人は四四軒、御免札受は一八七軒、平島手永の諸職人は三一軒、御免札受は七一軒を数えている。
 次に慶応四年(一八六八)六月の「仲津郡節丸手永表納諸免札書上帳」を基に、第81表として、節丸手永の「免札の種類・運上銀・納所」を示しておこう。
第81表 免札の種類・運上銀・納所
慶応4年(1868)6月
免札の種類単位運 上 銀納 所
鉄炮札1枚5匁       勘定所
投網札1枚2匁       
綟子細札1枚4匁       
小垂札1枚10匁       
古薪馬札1枚1匁5分      
古薪歩行札1枚5分      
松 札1枚1匁5分      
焼炭札 1枚8匁       
松葉札1枚1匁       山方運上所
下 苅30束1匁       
新薪馬札1枚3分7厘5毛  郡土蔵
新薪歩行札1枚1分8厘5毛4拂 
踏炭札1枚43匁       
「仲津郡節丸手永表納諸免札書上帳」による。

 節丸手永の大庄屋節丸仁右衛門(慶応二年八月二十三日に就任し、明治三年に二作と改名、同五年に退任)より仲津郡筋奉行和田卓蔵へ報告された諸免札書上帳である。小笠原香春藩では、どのような種類の免札が発行され、それぞれの運上銀がいくらであったのか、その一部を知ることが出来る。