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山方定

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享保十五年(一七三〇)、小倉藩は、「山方定」を発し、山林の保護と管理を企図したが、一〇〇年後の天保二年(一八三一)にも、次のような山方「定」を出している。
 
      定
  一、上り山下方より願ニて式銀上納、銘々仕立山に差遣候も相成らざる事
  一、上り山と仕立山式替相成らず候事
      但、右両条拠(よんどころ)無き趣意これ有候ハゞ申出べし、評儀の上、差図致すべき事
  一、野山式の分仕立山に願出候はば、詮儀の上、差免(さしゆる)すべき事
  一、御植付の諸木御用材に伐取、又は御払等の事
  一、御帳面付の御用木伐取、又は御払の事
  右の条々これ有候節は、評決の上、御山鑑・手永鑑・村鑑、三帳面に引合、山奉行押切判いたし、相渡さ
  るべく候、尤御山式替の節は勿論役所調印をも致すべき旨申達候、後年に至、若不分明次第もこれ有候て
  は役々の本意を失候義に付、下方にても此旨相心得、定法の通越度(おちど)これ無き様念入べき旨申達せ
  らるべく候、以上
    卯(天保二年)八月           筧宇兵衛
      山奉行中宛
 
 上り山(藩有林)を仕立山(民有林)に式替することを禁じ、野山式を仕立山に式替することは詮議の上、許可するとした。そして、上り山での請木伐採は、山奉行の許可が必要であるとした。
 弘化三年(一八四六)五月にも「山方触書」を発しているが、これは享保十五年の「山方定」をほぼ踏襲したものである。この触れでは、野山への植林を奨励し、上り山での請木伐採については、伐採後の植林を義務づけている(第57図参照)。また、第十一条に、次のような条項がある。
 
  一、四つ高松植付場所の儀は、其筋より差図受くべく候、尤冬内に詮義遂、或は畝数、松の員数、植付夫
    共に受書差出申すべき事
 
 嘉永七年(一八五四)二月、藩は、四つ高松(高一〇〇石につき松の苗一〇〇本ずつをその村の空地に、農民が隙(ひま)な正月に植えさせた)を村々に植え付けるように奨励しているが、仲津郡五手永が申し合わせ、植え付けの半分は、天生田より大橋の犀川(今川)の堤防沿いに植林するように指図している。植林の木種はどんな木でもよいが、柳の木の場合は指木(さしき)して植え付けるように指導している(「長井手永大庄屋日記」)。
 

第57図 植林