文政三年(一八二〇)、小倉藩は、大規模な藩営の宇島築港計画をたて、八月六日、幕府へ築港の諸願書を提出した。翌四年三月、老中水野忠成の名で、幕府の許可が下りた(『杉生十右衛門』)。四月六日、起工式が行われ、大工事が始まった。藩は、工事に使用する資材調達を領内に命じ、各地の山林で松木や雑木の伐り出しが行われた。
四月二十四日には、早くも仲津郡五手永の山林から伐採された松木一二〇〇本、杭木二六〇〇本が宇島の工事現場へ運ばれてきた。山から伐り出した木材は、一九〇〇人の夫役(ぶやく)動員で陸路松原村浜(現行橋市)まで搬出し、そこから船で宇島まで回漕された(「長井手永大庄屋日記」)。
文政五年四月にも、仲津郡より宇島へ用材が運ばれている。節丸手永では、仲津郡割り当て用材四〇〇本のうち、樫(かし)四〇本、樫丸木四〇本が帆柱山より伐り出され、人夫によって沓尾浜まで搬出され、そこから船で宇島へ回漕された。その後も、帆柱山や長井谷をはじめ領内の各山より必要に応じて用材が宇島へ運ばれた。
文政十一年正月八日、着工以来約七年の歳月を経て、二万四〇〇〇貫余の莫大な工費と資材調達・人的動員によって宇島築港が完成した。