国作手永の国分村一村と、徳政村、上坂村、節丸手永光冨村、長井手永続命院村・久冨村・平嶋手永彦徳村の六カ村の一部一帯の洪積台地は、樹木や雑草が繁茂して通行が困難であったので、地元では「ナンギョウバル」(難行原)と呼んでいた(『京都郡誌』)。この地方を旅した貝原益軒は、当地のことを「国分原トテ方一里ノ広キ原」(『豊国紀行』)と記し、史料には、「南行原」・「南郷原」などと散見される。
今川と祓川の浸食作用によって形成されたこの台地は、丘陵の原野であったが、江戸中期以降、「殖産」と「植林」と「移住」によって次第に開発されていった。
「国作手永大庄屋日記」文化十三年(一八一六)九月十二日の条に、
一、櫨実拾八斤五合 南行原手永櫨、市右衛門書付前
とあり、同日記文政二年(一八一九)三月四日の条に、
一、櫨生実 三拾四斤 国作手永分
代銭五百拾文 壱斤に付十五文替
右ハ南行原櫨生実去寅(文政元)年分、代銭市右衛門預り、井上(郡奉行)様へ御届申上ル
とある。そして、三月七日の条には、次のような記述がある。
一、櫨生実 弐拾弐斤 南行櫨卯年(文政二年)分
井上様に書出
代札弐匁九分九厘
国作手永に割り当てられた「手永櫨」は、主として南行原で生産され、文化十三年には一八斤五合、文政元年には三四斤、同二年には二二斤の櫨生実が生産されている。そして、生産惣高の二割相当を冥加銀として藩庫に上納し、残りの八割相当分は、その村方の牛馬代に充当させたのである。