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南行原の開発と植林

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天保四年(一八三三)、国作手永の大庄屋は、国分村南行原の上り山(藩有林)に松を植林したい、と京都・仲津郡山奉行細井彦兵衛に願い出をしている。
 「国作手永大庄屋日記」同年十二月晦日の条に、
 
  外弐千四百拾九石 引高国作手永
  四ツ高六千九拾石六斗五升六合七勺
   一、松数九千百弐拾本
   但、国分村南行原上り山式に植付仕度願い奉候
    内
 一、三百九拾弐本国作村
一、七百弐拾壱本福冨村
一、三百四本惣社村
一、八百三拾八本矢冨村
一、弐百壱本有久村
一、弐千弐百七本大橋村
一、五百三拾九本竹並村
一、弐百六拾八本下原村
一、七百八拾七本田中村
一、五百五拾四本呰見村
一、七百五本綾野村
一、七百六拾三本国分村
一、百五拾本上坂村
一、六百九拾壱本徳政村
   巳十二月(天保四年)
  右書付翌午正月十一日、細井(山奉行)様に差出す


 
とある。国作手永一四カ村の各村の四ツ高に応じて松苗を用意し、上り山に植林したい、というのである。
 天保七年(一八三六)には、南行原に楮の植林が山奉行の指揮の下に、今井村の農民五人を動員して行われている。この時は、大坂より楮苗二万一八五〇本を取り寄せたのである。
 
     覚 
  一、楮苗弐万千八百五拾本
   内
一、弐千本両伊良原渡
一、千弐百本崎山村渡り
一、五百本国分村渡
畝数壱町五反壱畝八歩   坪に四本植積り
残壱万八千百五拾本    南行原植付
   内
畝数弐反弐畝拾九分
一、弐千七百拾五本元永
同壱反七畝廿四分
一、弐千百三拾六本国作
同弐反八畝拾八分
一、三千四百三拾壱本長井
同弐反四畝廿四分
一、弐千九百七拾七本平嶋
同五反七畝拾壱分
一、六千八百九拾壱本今井
  申正月
(「長井手永大庄屋日記」天保七年一月十日の条)