天保八年(一八三七)、国作手永の南行原の荒畑五町歩余を開発し、唐芋を植え付けている。また、「長井手永大庄屋日記」天保十年(一八三九)十月八日の条に、次のような記事が散見される。
早々御意を得候、然ば南郷原え御仕入唐芋米壱升に付六斤半宛にて御賣拂に相成候に付、相求度者は、其
村庄屋印形付書付持参致、国分村唐芋方御役所え罷出、相求候段、御手永々々村々早々御觸出し下され候
様との事に御座候、尚又代米の儀は、蔵納致呉候様との事に御座候、此旨をも御觸し下さるべく候、右御
意得べきため此の如く御座候、已上
十月六日 (国作手永大庄屋)森貞右衛門
御仲真中様
南行原へ植え付ける唐芋を、米一升に付き六斤半ずつ売却するので、希望者は、庄屋の印形付き書付を持参して国分村の唐芋方役所へ出頭するように、ということである。そして、南行原唐芋御仕入御用懸りに柳瀬村の平右衛門を任命している。