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錦原の開発と移住

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天保十年(一八三九)十月、小倉藩は、郡代原源太左衛門、仲津郡筋奉行細野健助、京都・仲津郡山奉行馬場庄助らに命じて、南行原の新田開発に着手し、地名も南行原を錦原に改めた。
 これ以後、京都、仲津両郡の有資者を錦原へ移住させ、天保十一年の時点で、仲津郡大庄屋五人をはじめ、「家数都テ四十軒許リ」(『中村平左衛門日記』)の町家が建てられ、牛馬市が立てられた(「今井津祇園社錦原御幸記録」)。錦原に移住した有資者には、大橋村の豪商柏屋や新屋・冨田屋・丸田屋・松屋らがいた。彼らは、錦原に建てた家(店)の間口の間数に応じて、櫨を植え付けるように命じられた。
 毎年、春秋の市日には、今井祇園社(現行橋市)の祭事や芝居が行われた。当日には近郷から人々が群集し、錦原の地には菓子屋・紺屋・遊女屋・定芝居なども出来た(「仏山堂日記」)。
 錦原の開発工事は、ひとまず、天保十二年に完成した。その後、錦原は、明治三年(一八七〇)以降、「豊津」と呼ぶようになった(「御用方當用日記」同年二月二日の条、「勢島文書」)。