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正保の国絵図

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江戸幕府は、慶長・正保・元禄・天保の四度、諸国の「郷帳」とともに、「国絵図」を作成させ、幕府勘定所に提出させた。
 豊前の「国絵図」は、正保図の転写本が国立公文書館内閣文庫に、元禄図の控えが福岡県立豊津高校小笠原文庫と島原市公民館松平文庫に、天保図の原本二舗(重複本)が国立公文書館内閣文庫にそれぞれ現存している。
 豊津町域について、正保四年(一六四七)作成の正保図(第58・59図参照)を見てみると、「国作 五百十石余」、「国分 五百五十石余」というように、各村ごとに村名と村高が記されている。そして、この正保図には、郡名・郡高・山の名・川の名・歩(かち)渡り・渡し(川幅と水深)・峠・台地・古城・島の名・船がかり・遠干潟などが書かれている。
 

第58図 豊前小倉藩絵図(部分)
(正保4年(1647)、『福岡県史資料』第2輯所収)


第59図 豊前小倉絵図(天保4年)の部分的復原図

 仲津郡域の交通網に関しては、下毛郡槻木(つきのき)村(現大分県下毛郡山国町)から彦山坊へ通ずる「彦山道」と、豊前大里(だいり)と豊後府内(現大分市)を結ぶ「豊前道」(小倉道)、そして、豊前道の仲津郡高瀬村(現行橋市)で分岐して袋迫・赤幡・小山田を通り求菩提(くぼて)山へ通ずる「求菩提道」(西の登山口)の三つの道が、主要道を示す赤い太線で引かれている。
 このことは、彦山信仰・求菩提信仰と修験道への、地域の人びとの篤(あつ)い信仰と太い絆(きずな)があったことを示唆している。
 また、周防灘沿岸の里三手永(国作・元永・平嶋の三手永)を東西に走る「豊前道」は、城下町と城下町を結ぶ政治的・経済的・文化的主要道であった。
 正保図では、主要道を示す赤い太線のほかに、村と村を結ぶ村道が赤い細線で引かれ、上原村と綾野村間に「七町十二間」、帆柱村と上伊良原村間には「一里山より上伊良原マデ二十三町」などと距離が打たれている。
 寛永三年(一六二六)に新設された豊前国領内の一里塚は、この正保図では「一里山」と呼ばれ、里程の一里(約四キロメートル)ごとに墨星(‥)で表示されている。豊津町域では、国作―呰見間、徳永―呰見間、光冨―節丸間に、それぞれ一里山の墨星がある。第60図として「大橋御茶屋・御蔵所・御高札・御境石・壱里塚」(豊津高校小笠原文庫所蔵)の中から、「大橋村之内、御境石」、「呰見村之内、御境石」、「呰見村之内、壱里塚」、そして、「大橋御高札」の復原図を示しておこう(第61図参照)。
 

第60図 御境石と壱里塚の復原図


第61図 御高札の復原図

 ところで、この正保図には、国境を越える峠なども描かれ、細かく道路網が記されているが、いずれも道筋の呼称が入っていない。
 仲津郡域を貫流する河川の名称は記されているが、現在の祓川は「伊良原川」、今川は「犀川」と記されている。そして、伊良原川には、筑前秋月往来の呰見村の地点で「歩渡、巾六間、深一尺」、豊前道の平嶋村の地点で「歩渡、幅八間、深一尺」と墨書されている。また、犀川には、筑前秋月往来の天生田村の地点で「歩渡り、幅十二間、深サ一尺二寸」、豊前道の大橋村の地点で「歩渡り、幅十五間、深サ一尺五寸」とある。このように、この両川とも、当時は橋が架かってなく、旅人は歩(かち)で渡河したのである。