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元禄の国絵図

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正保の国絵図の提出後、半世紀を経た元禄十年(一六九七)、幕府は、各国に国絵図を作成して提出するように命じた。
 同十三年十一月二十六日、郡代役宿久喜右衛門正式・田川郡筋奉行鮎川角兵衛広盛、それに上毛郡筋奉行有山由左衛門寛利の三人は、幕府勘定所へ「豊前国絵図」を提出するために小倉を船でたち、江戸へ向かった(『福岡県史』第三巻下冊)。
 この時、幕府に提出された、いわゆる元禄の「豊前国絵図」の控えが、福岡県立豊津高校小笠原文庫に所蔵されている。この絵図は、四メートル四方の大きなもので、豊前国八郡(企救・田川・京都・仲津・築城・上毛・下毛・宇佐)全域の各村ごとの石高・海岸線・河川・山・国境・郡境・社寺・名勝、それに主な道路などが丁寧に記されている(第62図参照)。
 

第62図 豊前国絵図(部分)

 正保と元禄の二つの絵図の相違点としては、次の二点が指摘できる。
 
 (1)二つの絵図を比較してみると、わずか五三年だが、この間の村々の推移が分かる。元禄図では、国分村
  から分離して上坂村(一三二石余)が新村として独立し、逆に、袋迫村が「徳永村ノ内袋迫」として徳永村
  に吸収されている(第86表参照)。そして、正保と元禄の郡ごとの石高では、仲津郡は四三一石、築城郡は
  五〇〇石、上毛郡は四二一五石、企救郡は二〇七七石、田川郡は三九二四石、それぞれ増加しているが、
  逆に、京都郡は七〇四石減少している。
第86表 正保図と元禄図の差異
正 保 図元 禄 図
正保4年(1647)元禄13年(1700)
 国分550石余 国分村420石余
 なし 上坂村132石余
 田中320石余 田中村247石余
 徳永250石余 徳永村267石余
 袋迫50石余 徳永村ノ内 袋迫

 (2)交通網の点では、正保図は主要道のほかに、村と村を結ぶ村道の記載があるが、元禄図は主要道だけで
  ある。そのうえ、正保図には、主要道として、豊前道・彦山道のほかに求菩提道があったが、元禄図には
  求菩提道の記載が無い。それから、正保図では、椎田と山鹿を結ぶ主要ルートが、椎田(しいだ)―築城―
  別府(べふ)―国作―天生田(あもうだ)―花熊―木山―山鹿のコースだったのが、元禄図では、椎田―築城
  ―別府―吉岡―久冨―八ツ溝―山鹿のコースになっている。つまり、椎田―山鹿間が最短距離のコースを
  採るようになったのである。このような主要ルートの移行によって、一里塚の位置も移動している。