「秋月道」は、「密書手控」(天保十五年六月吉日、中津市立小幡記念図書館所蔵)と「中津御城下道筋図」(幕末期、福岡県立糸島高校所蔵)には「秋月通」となっている(第64図参照)。そして、「秋月道(通)」は、それぞれの地域で、その地域に密着した通称があった。
第64図 中津御城下道筋図(福岡県立糸島高校所蔵)
椎田駅―国作―山鹿駅間(行程四里=一六キロメートル)は「筑前秋月往来」(「長井手永大庄屋日記」天保七年十二月二十九日の条、九大文化史研究施設所蔵)、山鹿駅―油須原駅間(二里=八キロメートル)は「筑前秋月往還」と書き分けてあり、行橋市天生田に現存する石の道標には、「石坂越彦山道」と刻まれている。
さらに、猪膝町駅―大隈間は、幕末期の「豊前小倉領全図」(豊津高校小笠原文庫所蔵)には、「大隈道」と記されている。このように、「秋月道」は、豊前の中津・椎田地域と筑前の秋月・二日市、そして、博多を結ぶ重要な街道であり、それぞれの地域で親しみやすい固有な呼称があったのである。