この天保図の作成過程で、同七年八月二十三日、幕府勘定所は、在府の大名諸家留守居役を召集し、領内の五街道、脇往還筋の人馬継ぎ立て・宿駅・人馬賃銭などを調べ、雛型にそって、書付を提出するように指示した。「長井手永大庄屋日記」同年十月五日の条に、次のような「脇往還筋書附」の写が記録されている。多少、長文になるが、近世の交通史料としては貴重なものであり、各地の脇往還が、公称で何と呼ばれたか、その実態を幕府レベルで調査した雛型であるので、次に紹介しておこう。
本紙美濃紙 | ||||||||
何の誰領分 | ||||||||
脇 往 還 筋 書 附 | ||||||||
何の誰家来 | ||||||||
何 の 誰 | ||||||||
何 往 還 | 何国何より何国何えの道筋 | |||||||
何の誰領分 | ||||||||
何国何郡 | ||||||||
宿 | ||||||||
一、何 町 類 | ||||||||
村 | ||||||||
何 宿え | 何里何丁 | 本 馬 | 賃銭何文 | 軽 尻 | 同 断 | 人 足 | 同 断 | |
何割増にて | 割増賃銭何文 | 同 断 | 同 断 | |||||
同 断 | 同 断 | 同 | 同 断 | 同 | 同 断 | 人 足 | 同 断 | |
同 断 | 同 断 | 同 断 | 同 断 |
何ケ宿にても一宿毎々右の振合認、継立、道筋の山坂・峠等これ有り候はば、其旨認、渡舩・川越等の
場所これ有り候はば、右賃銭も認、申べく候事
右宿方高何程、一日宿筋人足何人、馬何疋の定め、助郷村何ケ村、合馬何程、諸家通行の節、何人何疋
迄は其所定の賃銭にて継立、其餘は相對の賃銭請取来申候
但、助郷村これ無く候はば、其段認、諸家通行の節、何人何疋にても残らず、其所定賃銭にて継立
来候はば、右仕来の趣認、割増これ無く候はば、其旨認、申べく候事
右の外、何の誰領分の内、人馬継立候場所御座無く候、已上
何の誰家来
何年何月
何の誰印
追啓
一、先月廿三日、大手後、御勘定所え御留守居御呼の上、御領分の内、五街道の外、脇往還筋人馬継立・宿駅
村町等別紙雛形の通取調子、御勘定所へ差出べき旨仰渡され候の段申出候、この段御席を以、仰上られ、
御取調子成られ、重て仰越さるべく候、則御渡に相成候雛方(形)差進申候、已上
九月二日 嶋村十左衛門
原三左衛門様
別紙の雛形・帳面・御来紙共御渡に相成候由にて申参候に付、則写差廻候、左様相心得らるべく候、已上
十月三日 小出段蔵
「長井手永大庄屋日記」の天保七年十二月二十九日の条には、幕府の「脇往還筋書附」の雛形に沿って作成された次のような記録が散見される。これも、長文であるが、貴重な報告であるので、全文を紹介しておこう。
筑前秋月往来 | ||
一、豊前の国仲津郡山鹿の駅より同国築城郡椎田の駅へ三里三拾壱丁 | ||
一、本馬賃銭百弐拾四文 | ||
但、壱里三拾弐文 | ||
一、軽尻賃銭九拾三文 | ||
但、壱里弐拾四文 | ||
一、人足賃銭六拾弐文 | ||
但、壱里拾六文 | ||
右は 公義御用、御大名様方御通路の節、山鹿の駅より椎田駅え 継立候賃銭、割増御座無く候、御定通に継来候 | ||
一、本馬賃銭百八拾四文 | ||
内百弐拾四文 | 御定賃銭 | |
同六拾文 | 川越増賃銭 | |
一、軽尻賃銭百四拾四文 | ||
同九拾三文 | 御定賃銭 | |
同五拾壱文 | 川越増賃銭 | |
一、人足賃銭百八文 | ||
同六拾弐文 | 御定賃銭 | |
同四拾六文 | 川越増賃銭 | |
〆 |
右は御家中立御通路人馬賃銭山鹿駅より椎田駅迄継立申候
一、助郷村等は御座無く、都て村所にて相勤来申候
但、山鹿より椎田迄の内、川瀬四渡御座候
右の通仲津郡山鹿駅より築城郡椎田の駅迄の里数・賃銭・川越等相調子、書付差上申候、已上
申(天保七年) 山鹿駅庄屋
十二月 権次郎
右の通書付差出候間、則差上申候、已上
長井覚七
小出段蔵様
この書付は、山鹿駅庄屋権次郎より長井手永大庄屋長井覚七を経て、筋奉行小出段蔵へ報告されたものである。そして、領内より報告された内容が、藩でまとめられて、幕府勘定所へ報告されたのである。
したがって、「秋月道」のうち、椎田駅―築城―別府―国作―天生田―花熊―木山―山鹿駅のルートは、公称として「筑前秋月往来」と呼ばれていたことになる。第65図は、このルートの概略図である。
第65図 筑前秋月往来(椎田駅―築城―別府―国作
―天生田―花熊―木山―山鹿駅ルート)
前述の「長井手永大庄屋日記」の十二月二十九日の条の後半には、次のような記述が続いている。
筑前秋月往還 豊前山鹿より油須原えの道筋 | ||
一、豊前の国仲津郡山鹿駅より同国田川郡油須原の駅え弐里 | ||
一、本馬賃銭六拾四文 | ||
但、壱里三拾弐文 | ||
一、軽尻賃銭四拾八文 | ||
但、壱里弐拾四文 | ||
一、人足賃銭三拾弐文 | ||
但、壱里拾六文 | ||
右は、公義御用、御大名様方御通の節、山鹿より油須原えの継立候賃銭、割増御座無く候、御定通に継来 候 | ||
一、本馬賃銭九拾五文 | ||
内六拾四文 | 御定賃銭 | |
同三拾壱文 | 山越増賃銭 | |
但、石坂峠増賃銭分 | ||
一、軽尻賃銭七拾四文 | ||
内四拾八文 | 御定賃銭 | |
同弐拾六文 | 山越増賃銭 | |
但、石坂峠右同断 | ||
一、人足賃銭五拾六文 | ||
内三拾弐文 | 御定賃銭 | |
同弐拾四文 | 山越増賃銭 | |
但、石坂峠右同断 |
右は御家中立御通路人馬賃銭山鹿より油須原迄継立申候
一、宿方高弐百石引ル、一日宿勤人馬何程と定り并助郷村等も御座無く、都て村所にて相勤来り申候
但、山鹿より油須原迄の内、才川一ト瀬渡り御座候得共、この増賃は御座無く候
右の通仲津郡山鹿駅より田川郡油須原駅迄の里数・賃銭・峠・川越等相調子、書付差上申候、已上
申(天保七年) 山鹿村庄屋
十二月 権次郎
右の通書付差出申候間、則差上申候、已上
長井覚七
小出段蔵様
「秋月道」のうち、山鹿駅より崎山を経て、石坂峠を越え、田川郡の油須原駅までの二里(約八キロメートル)の行程は、公称として「筑前秋月往還」と呼ばれたのである。第66図は、そのルートの概略図である。
このように、「往来」と「往還」という言葉を使い分けて街道の区間表示をしていたのである。
第66図 筑前秋月往還
(山鹿駅―崎山―油須原駅ルート)