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往来と往還

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天保二年(一八三一)、幕府は、諸大名に対して、「郷帳」を作成して幕府勘定所へ提出するように指示し、同五年十二月には、「天保郷帳」を完成させた。そして、翌六年十二月二十二日、諸大名に国絵図の作成を命じた(「本丸廻状留」)。正保、元禄の場合は、諸大名に、国絵図を実際に作成させて提出させたが、「天保国絵図」の場合は、幕府が元禄図を短冊型に何葉分かに切断し、淡彩で薄紙の写しにして諸藩に渡し、元禄図と変わっている部分だけを紙に書いて添付し、訂正して提出させた。幕府は、これを基にして自ら国絵図に仕上げた。このようにして、天保九年五月には、「天保国絵図」がほぼ完成した。
 この天保図の作成過程で、同七年八月二十三日、幕府勘定所は、在府の大名諸家留守居役を召集し、領内の五街道、脇往還筋の人馬継ぎ立て・宿駅・人馬賃銭などを調べ、雛型にそって、書付を提出するように指示した。「長井手永大庄屋日記」同年十月五日の条に、次のような「脇往還筋書附」の写が記録されている。多少、長文になるが、近世の交通史料としては貴重なものであり、各地の脇往還が、公称で何と呼ばれたか、その実態を幕府レベルで調査した雛型であるので、次に紹介しておこう。
 
    本紙美濃紙
  何の誰領分
    脇 往 還 筋 書 附
何の誰家来
何 の 誰
  何 往 還  何国何より何国何えの道筋
  何の誰領分
  何国何郡
      宿
  一、何 町 類
      村
    何 宿え何里何丁本 馬賃銭何文軽 尻同 断人 足同 断
何割増にて割増賃銭何文同 断同 断
    同 断同 断 同同 断 同同 断人 足同 断
同 断同 断同 断同 断


   何ケ宿にても一宿毎々右の振合認、継立、道筋の山坂・峠等これ有り候はば、其旨認、渡舩・川越等の
   場所これ有り候はば、右賃銭も認、申べく候事
   右宿方高何程、一日宿筋人足何人、馬何疋の定め、助郷村何ケ村、合馬何程、諸家通行の節、何人何疋
   迄は其所定の賃銭にて継立、其餘は相對の賃銭請取来申候
     但、助郷村これ無く候はば、其段認、諸家通行の節、何人何疋にても残らず、其所定賃銭にて継立
     来候はば、右仕来の趣認、割増これ無く候はば、其旨認、申べく候事
右の外、何の誰領分の内、人馬継立候場所御座無く候、已上
                               何の誰家来
   何年何月
                                 何の誰印
 追啓
一、先月廿三日、大手後、御勘定所え御留守居御呼の上、御領分の内、五街道の外、脇往還筋人馬継立・宿駅
  村町等別紙雛形の通取調子、御勘定所へ差出べき旨仰渡され候の段申出候、この段御席を以、仰上られ、
  御取調子成られ、重て仰越さるべく候、則御渡に相成候雛方(形)差進申候、已上
  九月二日                         嶋村十左衛門
    原三左衛門様
   別紙の雛形・帳面・御来紙共御渡に相成候由にて申参候に付、則写差廻候、左様相心得らるべく候、已上
     十月三日                         小出段蔵
 
 「長井手永大庄屋日記」の天保七年十二月二十九日の条には、幕府の「脇往還筋書附」の雛形に沿って作成された次のような記録が散見される。これも、長文であるが、貴重な報告であるので、全文を紹介しておこう。
 
  筑前秋月往来
  一、豊前の国仲津郡山鹿の駅より同国築城郡椎田の駅へ三里三拾壱丁
  一、本馬賃銭百弐拾四文
但、壱里三拾弐文
  一、軽尻賃銭九拾三文
但、壱里弐拾四文
  一、人足賃銭六拾弐文
但、壱里拾六文
  右は 公義御用、御大名様方御通路の節、山鹿の駅より椎田駅え
  継立候賃銭、割増御座無く候、御定通に継来候
  一、本馬賃銭百八拾四文
 内百弐拾四文御定賃銭
同六拾文川越増賃銭
  一、軽尻賃銭百四拾四文
 同九拾三文御定賃銭
同五拾壱文川越増賃銭
  一、人足賃銭百八文
同六拾弐文御定賃銭
同四拾六文川越増賃銭
   〆


  右は御家中立御通路人馬賃銭山鹿駅より椎田駅迄継立申候
  一、助郷村等は御座無く、都て村所にて相勤来申候
      但、山鹿より椎田迄の内、川瀬四渡御座候
  右の通仲津郡山鹿駅より築城郡椎田の駅迄の里数・賃銭・川越等相調子、書付差上申候、已上
     申(天保七年)                            山鹿駅庄屋
    十二月                                  権次郎
  右の通書付差出候間、則差上申候、已上
                          長井覚七
      小出段蔵様
 
 この書付は、山鹿駅庄屋権次郎より長井手永大庄屋長井覚七を経て、筋奉行小出段蔵へ報告されたものである。そして、領内より報告された内容が、藩でまとめられて、幕府勘定所へ報告されたのである。
 したがって、「秋月道」のうち、椎田駅―築城―別府―国作―天生田―花熊―木山―山鹿駅のルートは、公称として「筑前秋月往来」と呼ばれていたことになる。第65図は、このルートの概略図である。
 

第65図 筑前秋月往来(椎田駅―築城―別府―国作
―天生田―花熊―木山―山鹿駅ルート)

 前述の「長井手永大庄屋日記」の十二月二十九日の条の後半には、次のような記述が続いている。
 
 筑前秋月往還 豊前山鹿より油須原えの道筋
  一、豊前の国仲津郡山鹿駅より同国田川郡油須原の駅え弐里
  一、本馬賃銭六拾四文
但、壱里三拾弐文
  一、軽尻賃銭四拾八文
但、壱里弐拾四文
  一、人足賃銭三拾弐文
但、壱里拾六文
  右は、公義御用、御大名様方御通の節、山鹿より油須原えの継立候賃銭、割増御座無く候、御定通に継来
  候
  一、本馬賃銭九拾五文
 内六拾四文御定賃銭
同三拾壱文山越増賃銭
  但、石坂峠増賃銭分
  一、軽尻賃銭七拾四文
内四拾八文御定賃銭
同弐拾六文山越増賃銭
  但、石坂峠右同断
  一、人足賃銭五拾六文
内三拾弐文御定賃銭
同弐拾四文山越増賃銭
  但、石坂峠右同断


  右は御家中立御通路人馬賃銭山鹿より油須原迄継立申候
  一、宿方高弐百石引ル、一日宿勤人馬何程と定り并助郷村等も御座無く、都て村所にて相勤来り申候
      但、山鹿より油須原迄の内、才川一ト瀬渡り御座候得共、この増賃は御座無く候
  右の通仲津郡山鹿駅より田川郡油須原駅迄の里数・賃銭・峠・川越等相調子、書付差上申候、已上
     申(天保七年)                           山鹿村庄屋
      十二月                                 権次郎
  右の通書付差出申候間、則差上申候、已上
                      長井覚七
      小出段蔵様
 
 「秋月道」のうち、山鹿駅より崎山を経て、石坂峠を越え、田川郡の油須原駅までの二里(約八キロメートル)の行程は、公称として「筑前秋月往還」と呼ばれたのである。第66図は、そのルートの概略図である。
 このように、「往来」と「往還」という言葉を使い分けて街道の区間表示をしていたのである。
 

第66図 筑前秋月往還
(山鹿駅―崎山―油須原駅ルート)