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人馬賃銭

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五街道や筋往還の宿駅には、逓送用の人馬が常備され、人びとの往来や物資の搬送に労力を提供するとともに、それに必要な経費を人馬賃銭として徴収した。
 幕府は、五街道の人馬賃銭について一定の基準を定めたが、これは脇街道の宿駅にも準用された。例えば、東海道宿駅の人馬賃銭をA級とした場合、九州では、幕府領がB級、譜代藩領がC級、外様藩領がD級と格付けされて同一里程間において賃銭の格差があった。
 これを「豊前道」に適用すると、宝暦年間(一七五一―六四)の本馬賃銭(荷物一駄分で目方四〇貫=一五〇キログラムまでを運ぶ賃銭)は、A級(東海道など)―六〇文に対して、B級(幕府領の四日市・別府・浜脇など)―四一文、C級(譜代藩の小倉領・中津領)―三二文、D級(外様藩の日出領・島原藩飛び地)―二四文であった。
 天保七年(一八三六)の「長井手永大庄屋日記」に山鹿駅庄屋権次郎が筑前秋月往来と筑前秋月往還における人馬賃銭について報告した「脇往還筋書附」が記録されている。その史料の一部は、既に紹介したが、全体の概要を次に箇条書きにしておこう。
 
    (1) 公儀御用・諸大名の定賃銭は、人足一人につき一里(約四キロメートル)一六文、本馬は三二文、
      軽尻は二四文の割合である。
    (2) 家中の定賃銭は、公儀御用・諸大名のそれと同一であるが、川越え、山越えの場合は増賃を徴
      収した。
    (3) 筑前秋月往来(椎田駅―国作―天生田―山鹿駅)には、「川瀬四渡」(築城川二渡、伊良原川一渡、
      犀川一渡)の川越えがあり、人足一人につき一里一二文、本馬は一五・五文、軽尻は一三文の増
      賃を徴収した。
    (4) 筑前秋月往還(山鹿駅―崎山―石坂峠―油須原駅)には、「川瀬一渡」(犀川一渡)の川越えがあ
      るが、これは徴収しない。しかし、山越え(石坂峠)は、人足一人につき一里一二文、本馬は一
      五・五文、軽尻は一三文の増賃を徴収した。
 
 第87表は、筑前秋月往来と筑前秋月往還の、それぞれの区間における人馬賃銭を表にしたものである。
第87表「秋月道」のうち、小倉領内の人馬賃銭 天保7年(1836)
番 号12
街  道  名筑前秋月往来筑前秋月往還
宿  駅  名椎田――山鹿山鹿――油須原
区 間 距 離3里31丁2里00丁



諸大名
公儀御用
本駄賃
軽 尻
人足賃
124文
93文
62文
64文
48文
32文
御家中本駄賃
軽 尻
人足賃
184文(124+60)
144文(93+51)
108文(62+46)
95文(64+31)
74文(48+26)
56文(32+24)
人馬賃銭の増賃のうち、番号1は川越え増、2は山越え増(石坂峠)の賃銭。
出典は「長井手永大庄屋日記」。

 このように、「秋月道」のうち、小倉領内の人馬賃銭は、「豊前道」のそれと同様に、本馬賃銭はC級―三二文であった。
 第88表は、北部九州の天領と諸藩の本馬賃銭の推移を示したものである。
第88表 北部九州の天領・諸藩の本馬賃銭の推移(単位 文)
親疎
の別
天領・藩名宝暦年間
(1751~64)
明和元
(1764)
明和2
(1765)
天明3
(1783)
寛政元
(1789)
文化年間
(1804~18)
天保7
(1836)
A(東海道)60
B天領日 田41
C譜代中津藩32
小倉藩3232
唐津藩3233
D外様福岡藩24 6宿 41
21宿 32
秋月藩24 3宿 32
佐賀藩2418宿 41
15宿 32
久留米藩2433
『北九州』(箭内健次編)、「長井手永大庄屋日記」(天保7年)などによる。

 宝暦年間まで、将軍との親疎の別で、領域内通過の本馬賃銭の格差が整然と体系化されていたが、明和元年(一七六四)以降、その体系が崩壊し、外様藩領の本馬賃銭がD級からC級へ値上げされ、十九世紀の四半期には、北部九州諸藩の宿駅の本馬賃銭はC級の三二、三文になった(箭内健次編『北・九州』)。
 ところで、天保七年に、人足一人につき一六文であった人足賃は、翌八年には二八文と、七五パーセントの値上げが幕府によって許可されている。