行橋指定(民)四号
道路標柱
指定年月日 昭和四十八年七月一日
江戸時代に建てられた道路標柱で、花崗岩の四角柱。高さは一三六cm、幅二八cm。「従是東椎田道」、
「従是南石坂越彦山道」、「従是西香春道」、「従是北小倉道」と四面に刻字されている。東方の椎田か
ら西方の香春に通じる道は、往時の豊前国府から七曲峠を経て香春に通ずる官道沿いの古道でもあったし、
今川沿いに英山街道が通じていたことをこの道しるべは教えてくれる。
行橋市教育委員会
第67図 (写真)天生田の道標豊前国府と香春を結ぶ官道と
彦山街道が交差する天生田に立てられた石の道標と説明板
(写真)「従是東椎田道」「従是南石坂越彦山道」「従是西香春道」
「従是北小倉道」と四面に刻まれた石の道標
この説明板で、「東方の椎田から西方の香春に通じる道」、「往時の豊前国府から七曲峠を経て香春に通ずる官道沿いの古道」と表現されている道は、「正保図」や「豊前小倉領全図」で図示されている椎田―築城―別府―徳永―田中―国作―天生田―大谷―西谷―新町―上野―香春のコースをとる道のことである。椎田駅と香春駅を結ぶルートのうち、椎田―築城―別府、そして、豊津町域の徳永―田中―国作を経て天生田に至るコースは、石の道標によると、「椎田道」と呼んでいる。それから、天生田―大谷―西谷―新町―上野―香春のコースを「香春道」と呼んでいるのである。
この「香春道」のうち、新町は、「豊前小倉領全図」でも明らかなように、駅(宿駅)であった。明治五年(一八七二)二月の「人足賃銭請取帳 中原嘉左右」に、
覚
一、丁銭壱〆三百八拾文
人足三人
右は豊津より新町まで
二月廿五日
豊津 駅所 |
とある。当時、豊津駅所より新町駅所までの人馬継ぎ立て費用のうち、人足一人分の経費は銭四六〇文であった。