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小倉道と石坂越彦山道

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石の道標に、天生田より北は「小倉道」、南は「石坂越彦山道」とあるように、天生田はクロスロード(十字路)として、交通上、重要な地点であった(第68図参照)。
 

第68図 仲津郡の主な道

 ここでいう「小倉道」とは、天生田より、犀川に沿って北進し、流末を経て大橋へ至るルートのことである。したがって、「小倉道」というよりも、むしろ、「大橋道」というべきところであるが、当時の人びとの感覚としては、城下町小倉へ通じる道という意識が強かったのであろう。
 大橋は、「豊前道」と「小倉道」が交差する街であり、隣の行事に宿駅があった関係上、人馬継立場こそなかったが、仲津郡の年貢の一部をいったん収納する「大橋御蔵所」(郷蔵)があり、「節丸手永宿」、「長井手永宿」、「国作手永大庄屋役宅」などもあって、交通上、流通上、重要な拠点であった。
 大橋には、「御蔵所」のほかに、「大橋御茶屋」があった(第69図参照)。現在の行橋市中央公民館とその周辺が、御茶屋の跡で、この付近はいまも「御茶屋脇」・「御茶屋下」という地名(小字名)が残っている。
 

第69図 大橋御茶屋の復原図

 小倉藩内の御茶屋は、企救郡の城野・今村・呼野・湯川・田の浦新開、田川郡の香春町・猪膝町・添田町・金田、京都郡の行司町、仲津郡の大橋村、築城郡の椎田町に、それぞれ設けられていた。企救郡のうち、城下付近のものは遊場の設備として使用され、城下より遠隔の地に設けられた御茶屋は、藩主の廻郡や幕府巡見使の巡察のとき、休息または宿泊所として使用された。
 御茶屋番士は、書院番またはお目見得、組外の士分が担当し、門外に役宅が設けられ、中間(ちゅうげん)一人が掃除万端すべてを担当した。
 大橋の御茶屋は、武術の練習、相撲などもできるように、敷地はかなり広く、明治四年(一八七一)には大橋洋学校の学館として地域文化に貢献した(『行橋市史』参照)。
 一方、天生田より南は「石坂越彦山道」と呼ばれている。この道は、天生田―花熊―木山―山鹿駅―崎山へ経て、石坂峠を越え、油須原駅へ至るコースであり、このうち、天生田―花熊―木山―山鹿駅の間は、筑前秋月往来、山鹿駅―崎山―油須原駅の間は、筑前秋月往還と呼ばれていたコースと重なっている。油須原駅から彦山へ行くのか、それとも秋月へ行くかによって、天生田―油須原駅間の道の呼称が異なっていたのである。