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大宰官道と国分駅

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古代における九州の主要道は、西海道と大宰府官道であった。都(中央)と豊前国府(地方)を結ぶ駅路の関係では、西海道の東路が到津駅(北九州市小倉北区)で分岐して苅田駅(苅田町)から京都峠を越えて多米駅に至り、大宰府と豊前国府を結ぶ駅路の関係では、大宰府から東へ伏見駅(穂波郡)―綱別駅(嘉麻郡)―田河駅(田川郡)へと延びてきた支路が多米駅で交わった。そして、この道は、東へ向かい豊前国府の南辺に達した。駅路の往来は、官人・官使の駅馬によるもののほか、農民の租・調の大宰府への運搬路などとしても利用された。
 現在までに、豊前国内の駅家跡は発見されていないし、多米駅の所在地も特定されていない(『犀川町誌』)。
 国分村は、古代、豊前国府が設置されたところとして栄えたが、国分駅という駅はなかった。一方、近世、豊前国府はその機能を失ったが、国分村には継所(駅)が置かれていた。
 「永沼文書」(京都郡犀川町)の中に、年代不詳であるが、大橋継所より国分継所あてに、書状一通を帆柱村まで継ぎ立てて欲しい、という内容の依頼状(「覚」)が入っているので、次に紹介しておこう。
 
       覚
  一、御状壱通
  〆
  右の通帆柱村迄御継立下さるべく候、以上
                                  大橋継所
    七月廿七日
     国分御継所