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錦原開発と四新道

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「難行原」と呼ばれ、未開の原野であった豊津台地は、天保十年(一八三九)から始まった藩営の天保の開発によって、翌十一年(一八四〇)には、国作道・大橋道・續命院道・節丸道の四道が新しく造られ、さらに溝を掘って用水が引かれた。
 天保十五年(一八四四)二月の「錦原開發に付夫遣一切調子帳 郡扣」(「勢島文書」、北九州市立歴史博物館所蔵)に、
 
  一、同(夫)千八百人
      但、子(天保十一年)三月、同所節丸道・續命院道・大橋道・國作道・右四ケ所道造り入用
 
 とある。この新しい四つの道の道普請のために、人夫一八〇〇人が動員されている。
 第70図は、「錦原城地縄張り図」(豊津町立歴史民俗資料館所蔵)である。この絵図の作成年代は不詳であるが、絵図の中央部に描かれた正方形の部分が藩庁造営の予定地と考えられるので、慶応二年(一八六六)に作成されたものと思われる。
 

第70図「錦原城地縄張り図」の復原図

 第二次長州戦争で敗色が濃くなった小笠原氏は、慶応二年八月一日、小倉城を自焼し、香春に撤退したが、同年十月四日、当時、「錦原」と呼ばれていた豊津台地を、仲津郡奉行西正左衛門ら藩の役人三一人が「御城地見分として」視察している。「村上仏山堂日記」によると、このとき、絵師も同行しているので、この縄張り図は、慶応二年の作成と思われるのである。
 第70図の「錦原城地縄張り図」には、天保十一年に造られた四つの新しい道が描かれているはずである。絵図の中央部の二つの池の側に描かれた集落群が錦原とすると、この地点より續命院へ南西に延びている道が「續命院道」であり、長養池の方へ北進する道が「大橋道」である。そして、国分より上坂の分岐点までの道が「節丸道」、国分より惣社へ北進する道が「国作道」であると思われる。
 この四つの新しい道の建設は、天保の錦原開発の基幹事業というべきものであり、「錦原下本陣」の建築、町家四〇軒の建設と町人の移住、殖産興業、植林などに連動する重要な事業であった。このような錦原台地の開発が、二五年後の豊津遷都(藩庁造営)へ結実していったのである。