宿駅には、「御本陣」・「本陣」・「脇本陣」以外に、主として一般庶民や公用でない武士などを宿泊させる「旅籠(はたご)屋」さらに「木賃宿」があった。
安政四年(一八五七)の「小倉藩主御廻郡覚書」(仮題、「長井文書」)に、
戌年御巡見大村御泊
中御本陣 赤角取紙
亭主
平岩七兵衛様 長井覚七
下御本陣 青キ角取
同
片桐靭負様 長井雄平
上御本陣 白キ角取紙 同
三枝平左衛門様 治左衛門
〆
という記事がある。これは、天保九年(一八三八)四月二十六日に、幕府巡見使平岩七兵衛・三枝平左衛門ら一行八二人が、諸国巡見で大村に宿泊した折、平岩氏には中(なか)御本陣として長井手永大庄屋長井覚七の役宅があてられ、片桐氏の泊所にあてられた下(しも)御本陣には亭主として長井雄平が詰め、三枝氏宿泊の上(かみ)御本陣には治左衛門が亭主としてそれぞれ詰めたのである。
第71図は、宝暦十一年(一七六一)の、幕府巡見使の小倉領内の巡察コースを図示したものである。
第71図 幕府巡見使巡察コース―宝暦11(1761)年―
この「幕府巡見使」というのは、江戸幕府が体制維持のため設けた制度で、将軍が代わるたびに、大名領や、あるときには天領に巡見使を派遣して、各国の政情や民情の査察を行ったことである。