(1)幕府巡見上使の休泊施設として御本陣が大村に三軒ある。そのうちの一軒は、大庄屋の住居である。
葺き替えなどは年々手永より加勢し、修繕もしてきたが、古家になっている。
これは、中御本陣のことであり、長井手永大庄屋の役宅がこれにあてられていた。
(2)二軒目は、寛政元年(一七八九)三月に巡見使が宿泊して後、葺き替えなどは年々御郡よりしてきた
が、家番を置かなかったため、破損がひどかったので、文化六年(一八〇九)に上ノ間・御用人部屋・御
次の間・湯殿・雪隠の部分を解体した。その後、破損がひどく、使用不可能になったので、このたび解
体したい。
しかし、この下御本陣の解体願は、藩によって却下された。第72図は、この解体願に添付された「下御本陣絵図」の控えである。
第72図 大村下御本陣の復原図
「御本陣」や「本陣」の家屋の構造は、原則として門構えと玄関及び上段ノ間があり、「脇本陣」は、門構えと玄関のいずれか一方を欠く例が多い。
この絵図をよく見ると、玄関と上ノ間があり、御本陣の家屋構造に合致している。門構えがないが、書き落としたものと考えられる。
(3)三軒目は、痛みが軽いので、これまでのとおり御郡より葺き替えなどを行う。
これは上御本陣のことである。
このように、幕府巡見使が大村に宿泊するとき、休泊施設として、中・下・上の三軒の御本陣があてられた。
ところで、天保十年(一八三九)、錦原の開発として、御本陣と町家、芝居小屋の建築工事が始まっている。長井手永大村には、前述のごとく、中・下・上の三軒の御本陣があるのに、なぜ、「錦原下御本陣」の建設を推進したのだろうか。
実は、大村の「下御本陣」は文政十年(一八二七)に、破損がひどいため、解体願が出されたが、このときは、藩が却下している。主として、幕府巡見使の巡察と藩主の廻郡のときに使用される建物であり、日常的な利用は少なかったので、藩による却下の処理も、仕方がなかったのかもしれぬ。ところが、天保九年(一八三八)将軍の代替わりによる、突然の巡見使派遣に、大村下御本陣の新築が間に合わず、一部の改築によって急場を凌いだものと思われる。その反省の下に、翌十年、錦原の開発の一つとして、「錦原下御本陣」の建設が推進されたのであろう。
しかし、仲津郡奉行西正左衛門が指摘しているように、当初、下御本陣の錦原建設は不都合であった。なぜかというと、大村とは約三キロメートルも離れており、幕府巡見使の巡察の場合、上使三人の宿泊所は、互いに近いほうが都合がよいし、藩主廻郡の場合も、その方が好都合であったからである。したがって、錦原下御本陣は、仲津郡大庄屋中の会合に使われ、後には山奉行の役宅に転用された。幕府巡見使の諸国巡察は、天保九年の巡見を最後に、結局、実施されなかったので、山奉行の役宅として専用されても、結果として、不都合ではなかった。