「宿駅」とは、公用貨客の輸送・休泊・通信のため、五街道や筋街道に、二、三里(八~一二キロメートル)ごとに設けられ、そこに一定の人馬を常備させたものである。街道に面して縦長の屋敷が続く帯状の街並みが宿駅町の特色である。
宿駅には、「半宿(はんしゅく)」と「本宿(ほんしゅく)」があった。「半宿」は、藩用の小荷駄継ぎ立てを行い、問屋の設置はなく、人馬会所詰めの庄屋や村役人がこれに当たった。大村には人馬会所があり、幕府巡見使の諸国巡見や藩主の廻郡のときに、手永の子供役や会所詰めの庄屋や方頭などがその世話に当たった。したがって、大村は、宿駅機能としては「半宿」であると考えられる。前掲の「小倉藩主御廻郡覚書」には、大橋人馬会所が散見される。大橋町も、大村と同様に、「半宿」であるといえるであろう。領内の「半宿」は、大村、大橋町のほかに、石原町・蒲生などであった。
一方、「本宿」とは、諸大名の参勤交代や公武の旅行など、公用・藩用の小荷駄の運送継ぎ立てを行うもので、問屋がこれに当たった。山鹿駅は、藩用や私用の小荷駄の運送継ぎ立てをしたので「半宿」であるはずだが、人馬会所がなく、問屋がこれらの機能を行ったので、やはり「本宿」といえる。領内の「本宿」は、大里(だいり)・下曽根(しもそね)・徳力(とくりき)・呼野(よぶの)・松江(しょうえ)・八屋(はちや)などで、宿駅問屋は代々世襲が多く、呼野宿駅問屋は高津氏、八屋宿駅問屋は紙屋がこれを務めた。
山間盆地の宿駅山鹿村は、「筑前秋月道」を挟んで隣り合わせの大村と、相互補完的な関係の下に、宿駅集落を形成した。