文化十年(一八一三)閏十一月二日、この山鹿村の宿場で火災が発生し、居家七軒と稲屋・牛屋・薪小屋・桶小屋・土蔵など六軒、合わせて一三軒を焼失した。このときの被災記録が、「長井手永大庄屋日記」に散見される。そして、同日記の慶応四年(一八六八)三月の条に、「山鹿村の街道筋と御高札・道標」が記されているので、これらを基に、「山鹿宿」の景観を再現してみよう。
南北に走る宿町の街道(筑前秋月道、石坂越彦山道)に沿って東西に家屋が帯状に連なり、宿(しゅく)の北と南の両入り口には、木戸の構柱が立っていた。宿駅の中央部には問屋場があって、高札と道標が立ち、本陣や旅籠屋などの主要な旅宿が一、二軒あり、商家が十数軒立ち並び、これより宿端にかけて煮売屋や旅商人宿札(免札)を持つ木賃宿が一、二軒あったようだ。文久二年(一八六二)時点では、庄屋利兵衛の旅籠屋に、治助と勘兵衛の木賃宿があった(「長井手永大庄屋日記」)。
文久四年(一八六四)における山鹿宿の往来人は二〇五人で、そのうち七三パーセントは小休通行人、二七パーセントが宿泊者である。階層別では、武士が七七パーセント、僧侶が八パーセント、町人と相撲取がそれぞれ六パーセントで、農民の往来は一パーセントと少ない。地域別では、島原藩の飛び地が宇佐・国東地方にあった関係上、島原の人が四七パーセントと多く、久留米・柳川・福岡がそれぞれ七パーセント、そして、宇佐・中津・佐賀と続く。京都・萩以外では、九州北半がそのテリトリー(往来圏)であった。
このように、山鹿宿は、文久四年時点では、月平均にすると、小休者一三人弱、宿泊者五人弱である。これに対し、継馬(つぎうま)五疋、宿屋三軒程度で伝馬役と宿泊役をなんとか果たし、助郷役の充当は無かった。
ところが、嘉永年間(一八四八―五四)に、近隣の田川郡香春宿駅が、数百軒をも焼失した二度の大火のため、駅役が不能となり、香春通りの役人や往来人が山鹿宿を通るようになったために、山鹿の駅役が繁雑になってきた(第74・75図参照)。
第74図 山鹿の街道筋
第75図 山鹿道標
嘉永五年(一八五二)の山鹿宿の人足夫は二八六人、伝馬役二八疋を数えた。しかし、山鹿には、伝馬が四疋しかいなかった。それで、山鹿の庄屋以下村役人は、伝馬購入金の年賦拝借や宿駅夫役米引・助郷役の要求・見せ物興行の申請などを行った。
そして、慶応二年(一八六六)八月の長州戦争における小倉藩の敗北と香春への撤退、藩主と近親者の肥後熊本への移動は、さらに多くの人馬供給を必要とし、山鹿の宿(しゅく)財政は一層逼迫(ひっぱく)していった。
このような混乱の中に、山鹿駅廃止の噂(うわさ)が流れ、版籍奉還後の明治二年(一八六九)十月十九日、山鹿駅は、いったん廃止になった。