翌月、山鹿村庄屋山田利兵衛ら村役人は、山鹿駅の再開願を香春藩庁に提出した。国宿号(駅号)を改めて許可し、役目高二〇〇石引、そして、これまでどおり御高札を山鹿村に立て置くように、と請願した。
明治三年一月十五日、藩庁が香春より豊津へ移転した。翌月十二日、豊津藩庁民政局は、山鹿が国宿として再開することを認めた。「長井手永大庄屋日記」同年二月の条に、次のように記録されている。
今般豊津え公廨御造営に付、山鹿・油須原両駅廃止申達候所、山鹿村より歎願の趣、余儀無き次第に付、
以後御国宿相立、当藩中丈御定賃銭を以継所申付候、以来山鹿・油須原・添田と継方致すべく候、尤旅人
通行は是迄の通差留候、此旨申達せらるべく候、以上
志津野拙三
二月十二日
浦野又四郎
和田卓蔵殿
このようにして、いったん廃止されていた山鹿と油須原の宿駅役は、豊津藩内だけの御定賃銭による公的人馬継ぎ立てだけに限定して許可され、旅人通行への人馬供給は廃止された。
山鹿駅は、豊津藩庁造営のための藩士の出入による人馬継ぎ立てで混雑し、そのうえ、明治三年冬以来日田・玖珠郡内の二万人に及ぶ騒動の鎮圧のために往返する藩士の人馬継ぎ立てで、一層混乱を極めた。同年十月より翌四年九月までの山鹿駅の一年間の人足夫は二〇三六人で、一八年前の人足夫二八六人の七倍に当たる混雑であった。
そこで、同年十一月、山鹿村庄屋山田耕作ら村役人は、豊津県役所に対して、助郷だけでは間に合わないので、手永の村々から人足夫を出し、そのうえ、宿役米二〇石の定引をするように歎願した。
このような山鹿宿駅の歎願をよそに、明治五年、宿駅そのものが廃止され、山鹿村も宿町としての機能を停止したのである。