第76図 人足賃銭請取帳(明治4年=1871)
第77図 「人足賃銭請取帳」
この帳簿主の中原嘉左右(天明二―明治二十七年)は、幕末から明治前半期にかけて活躍した北九州の豪商である。幕末期、大坂・兵庫・下関・若松・博多・長崎をはじめ各地の商人との諸商品の取引および金融活動に従事、藩に多額の貸し金や献金をし、家業の飛脚問屋の組織を通じて全国の情報を藩に提供した。
慶応二年(一八六六)、長州戦争敗退後は、藩庁とともに香春・豊津へ移動し、特権的商人として藩の財政を助けた。帳簿には、大里・小倉・苅田・行事・新町・椎田・豊津・松江・八屋などの人馬継立場(宿駅・継所・駅所・問屋)が散見する。
「人足賃銭請取帳」の中から豊津宿駅に関係する史料を次に三点紹介しておこう。
明治四年五月二十四日の豊津藩の豊津駅発行の人足賃銭請取として、
覚
一、丁銭壱〆五百八十七文
人足三人
右は豊津より沓尾迄
豊津
五月廿四日 驛 印
とある。豊津駅より沓尾までの賃銭は、人足一人丁銭五二九文であった。
明治四年十一月十四日に、豊前一国は小倉県となったので、次の明治五年二月二十五日の豊津駅所発行の人足賃銭請取は、小倉県時代のものである。豊津より新町までの賃銭は、人足一人丁銭四六〇文であった。
覚
一、丁銭壱〆三百八拾文
人足三人
右は豊津より新町迄
二月廿五日
豊津 駅所 |
そして、同年三月三日の豊前椎田問屋(継所)発行の人足賃銭として、
一、永弐百七文
人足三人
豊札〆弐拾八匁
壱分五厘
右は椎田より豊津迄
三月三日
豊前
継所 問屋
椎田
とある。文中の「永弐百七文」の「永」とは、永楽銭の略称である。江戸初期、関東では永楽銭が標準貨幣として通用し、幕府は、金一両=永一貫文=銭四貫文の比価を公定した。のち、永楽銭自体は市場から姿を消すが、金一両以下の計算単位として便利なため、計算上用いられつづけた。明治維新政府になっても、過渡期の明治五年三月時点では「永」表示が行われ、「豊札」(豊津藩札)が通用しているのである。椎田より豊津までの賃銭は、人足一人永六九文(豊札で九匁三分八厘)であった。
これらの「人足賃銭請取」で明らかなように、豊津藩時代の明治四年五月の時点で、豊津駅が設置されていたのである。豊津駅の起立がいつであるか、現在の段階で明確にできないが、存続期間はわずかな期間であったようである。
明治五年には、山鹿駅や油須原駅などとともに、豊津駅も、宿駅制度そのものが廃止されたため、その機能を停止したのである。