ビューア該当ページ

犀川と仲津舟

1135 ~ 1145 / 1391ページ
豊津町域には、中央部に伊良原川(祓川)が、西端には犀川(今川)が、それぞれ南北に流れている。伊良原川は、節丸手永帆柱の英彦山山地の鷹ノ巣山を水源として北流し、上伊良原・下伊良原・木井馬場を通り、豊津町域の節丸・光冨・上坂・綾野・有久・徳永などの集落を南北に貫流して、草場・津留を経て沓尾で周防灘へ注ぐ、流長三一・五キロメートルの二級河川である。
 一方、犀川は、同じく鷹ノ巣山を水源とするが、田川郡赤村、長井手永の崎山・山鹿・木山・花熊を通り、豊津町域の彦徳を南北に流れ、天生田・矢留・流末・寺畔を経て大橋で周防灘へ注ぐ、流長三一・六キロメートルの二級河川である。
 この伊良原川と犀川は、両川ともに鷹ノ巣山を源とし、北流して周防灘へ注ぐ、ほぼ同じ流長の河川であり、古くから洪水のたびに流路を変え、農民を苦しめてきたが、農業用水として、また、採魚の水資源として地域の人々と共に生きてきた。
 ところで、伊良原川と犀川は、人々や物資を運ぶ川舟の道として利用されている(第78図参照)。
 

第78図 犀川と川舟ルート

 両川が、いつから川舟の道として利用されたのか、その上限を現時点で明らかにできないが、管見の限りでは、「国作手永大庄屋日記」文政六年(一八二三)六月二日の条によると、文政六年時点で、既に、両川の舟運が実施されている。
 
       覚 
大橋村近江屋
  一、川船壱艘与兵衛
同  柏屋
  一、同 壱艘勘七
同  はりまヤ
  一、同 壱艘徳蔵
徳蔵義、藤蔵より出す
同  茶屋
  一、同 壱艘彦助
同  松屋
  一、同 壱艘源四郎
  一、同 壱艘利作
同  椛屋
  一、同 壱艘角蔵
  一、同 壱艘吉助
  一、同 壱艘善吉
  一、同 壱艘金七
  一、同 壱艘善九郎
同  元永屋
  一、同 壱艘孝助
  一、同 壱艘源太郎
同 常右衛門事
  一、同 壱艘太右衛門
  一、同 壱艘利兵衛
  一、同 壱艘彦蔵
  一、同 壱艘新吉
  一、同 壱艘九三郎
  一、同 壱艘貞兵衛
  一、同 壱艘利平次
国分村
  一、同 壱艘長左衛門
矢留村
  一、同 壱艘義介
  一、同 壱艘   国作貞右衛門
  〆弐拾四艘
  但し、今川筋川舩株願出候分書上ケ前
呰見村
  一、同 壱艘貞次郎
上坂村
  一、同 壱艘仁兵衛
  〆弐艘東川筋川舩株願出候分


 
 小笠原小倉藩では、船の保有権を許可する「船株」制度があった。これは、株仲間制度であり、株を取得したものは、その反対給付として運上銀あるいは冥加銀を藩へ上納しなければならなかった。そして、船株には、「海船株」と「川船株」があった。
 文政六年時点では、今川(犀川)筋の川船株を大橋村の豪商柏屋勘七をはじめ二〇人(二〇艘)、国分村一人(一艘)、矢留村一人(一艘)、国作手永大庄屋国作貞右衛門(二艘)、都合二二人(二十四艘)が持っていたのである。
 そして、文政六年には、新規に、東川(伊良原川)筋の川船株を呰見村貞次郎と上坂村仁兵衛が取得しているのである。
 一二年後の天保六年(一八三五)の「長井手永大庄屋日記」一月二十六日の条によると、長井手永で一二艘の川舟が、今川(犀川)の舟運で活躍している。そして、川舟の舟持ちたちは、都合一八貫四〇〇文の川舟運上銀を藩に上納しているのである。さらに、同日記天保十四年四月の条に、次のような記事が散見できる。
 
         覚 
彦徳村
  一、船 壱艘類助
同村
  一、同杉治郎
続命院村
  一、同勇助
古川村
  一、同卯平
木山村
  一、同重助
大村
  一、同利助
山鹿村
  一、同武平
柳瀬村
  一、同利兵衛
崎山村
  一、同勝助
同村
  一、同佐吉
同村
  一、同弥平
同村
  一、同仁七
同村
  一、同紋次郎
  〆拾三艘
   此運上札弐百四拾七匁
    但、壱艘に付拾九匁
  右の通舟運上取立、上納仕候、以上
長井雄太郎
     卯四月(天保十四年)
      木村新右衛門様
       覚
  一、札弐百四拾七匁         舟運上
      内百八拾七匁   金弐両三朱
      同三拾六匁    飴屋預り
      同弐拾四匁    万屋預三拾目
    〆
     卯四月(天保十四年)


 
 天保六年に一二艘だった長井手永の川舟は、同十四年には一艘増えて一三艘になり、川舟一艘につき一九匁の運上銀を藩に上納している。犀川舟運にかかわる豊津町域の舟持ちは、彦徳村の類助と杉治郎の二人だけである。あとの一一人は犀川町域の舟持ちである。しかし、豊津町域で生産された菜種子や櫨実などの商品作物は、犀川流域の産地買集座で集荷されて、川舟に荷積みされ、犀川を下っていったので、豊津町域と犀川とは、物資の流通や人々の往来で密接な関係があったのである。
 「長井手永大庄屋日記」を基に、長井手永の川舟持ちと舟数を表にしたのが第90表である。この表でもわかるように、嘉永元年(一八四八)に一四艘あった川舟は、九年後の安政四年(一八五七)には二二艘と、ほぼ倍増している。同日記の安政四年四月朔日の条に、この間の経緯について、次のような記事がある。
 
第90表 長井手永の舟持ちと舟数
村 名舟持ち天保14
(1843)
弘化4
(1847)
嘉永元
(1848)
安政4
(1857)
彦 徳類 助
杉治郎
大 熊栄次郎
続命院勇 助
平 八
古 川卯 平
武 七
七 助
木 山重 助
弥 平
大 村利 助
重 助
山 鹿武 平
伊兵衛
新 市
柳 瀬利兵衛
伊 助
崎 山勝 助
佐 吉
弥 平
仁 七
紋次郎
林平作
武 七
林平右衛門○○
元右衛門
多右衛門
花 熊喜三郎
本 庄伊 助
紋次郎
喜多良卯 平
大 坂七兵衛
久 富林 蔵
舟 数 合 計13131422

 
      覚
  一、川舟弐拾弐艘
  右は当手永村々川舟員数相調子、書付差上申候、以上
     巳(安政四年)十二月                  長井又蔵
      和田様
 
 「右の内、左の通」として、「一、弐艘、崎山村林平右衛門」以下一七人の舟持ちの名前(第90表参照)の連記ののち、
 
 花熊村
  一、壱艘喜三郎
古川村
  一、同七助
本庄村
  一、同紋次郎
喜多良村
  一、同卯平
  〆 


     但、右四艘村方御米運び方差支に付、近来相仕立、田川御米等は積方致し申さず候
  合弐拾弐艘
    内拾四艘 古来よりこれ有る表立候分運上取立
    内壱艘  世話方柳瀬村伊助分運上御用捨候事
 
とある。長井手永の村々より大橋蔵所へ年貢米を川舟で運ぶのは、従来一四艘であったが、近来、差し支えが出てきたので新規に川舟を増やしたというのである。
 このように、幕末期には、犀川(今川)を上下する長井手永の川舟二二艘と国作手永の川舟二十数艘(文政六年時点で二四艘)、合わせて五〇艘近い川舟が年貢米や物資や人々を運び、東川(伊良原川)でも小規模ではあるが川舟が上下していたようである。仲津郡の年貢米は、仲津舟の水士と仲津馬の馬士らが搬送するのが原則であった。
 入梅時、犀川では、上流から「材木流し」が行われた(第79図参照)。しかし、多雨による洪水のため、流材が井出刎や舟道を破損したり、周防灘へ流出することもあり、河川の管理に苦心した。
 

第79図 犀川(今川)