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天候不順とウンカによる大凶作

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江戸時代の三大飢饉(ききん)の一つといわれる享保十七年(一七三二)飢饉は、単年の災害では、最大の飢饉であった。この年の天候不順は、「前の五月末方より雨降りだし、閏五月廿七日迄雨降り続き、右の内四日ほど降らず日あり、その余は昼夜ともに降り通し」(『四日市村年代記』)とあり、「安武手永大庄屋日記」(豊津町歴史民俗資料館所蔵)にも、五月二十四日から雨模様で、翌閏五月一日から同月二十四日まで雨天であったことを記録している。約一カ月間昼夜にわたって雨が降り続き、このため、夏作の麦は腐ってしまい、大麦五分、小麦二分の出来にとどまった。天候はその後一転して、閏五月二十六日から七月二日までの内、一日だけ雨の日があっただけで、日照り続きで大旱魃(かんばつ)となった(第91表参照)。
第91表 享保17年3月~7月の天気
○晴天△曇天●雨天
 月
345閏567
1
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(「安武手永大庄屋日記」から)

 
 このため、田にはウンカが異常発生し始めた。六月十三日には、「村々小糠(ぬか)虫付候にて(中略)寒田(さわだ)(現築城町)にて、実盛人形こしらえ、かね・太鼓を打ち、子供に紙のぼりとも持せ候て、寒田より下り、追下し候はば、村々受取り、追下し候へと申し付け候」(「安武手永大庄屋日記」)と、ウンカを山手の方から、かねや太鼓を打ち鳴らして、下手の方へ順次追い、海へ追い出した。
 しかし、その効果は無く、同十九日には早くも「村々虫気殊の外強く、皆損田(無収穫田)のある段申し上げ候」と、ウンカによる稲作の大凶作の前兆が早くも出始めている。この報告を受けた大庄屋は、同月二十三日から、村々の虫付田を見回って、虫付きの状況を役所へ報告している。その後もウンカの発生は衰えず、七月になって異常に大発生した。役所からは、ウンカ撲滅対策に「虫気の田に、鯨油壱反に付き、弐合ずつ入れ見申し候へと、仰せ付けられ候」と、大発生したウンカ撲滅に、試行錯誤の状態である(「安武手永大庄屋日記」)。
 ウンカの大発生を『倉府見聞集』(『福岡県史資料』第三輯)には、「抜け殼が、水に浮かんでいる様子は、糠が浮いているようで、片時の内に一坪の内に五升、七升の抜け殼となる有様である。また、ウンカは、長稲にびっしりと取り付き、根から葉まで食いつくしてしまい、一夜の中に稲は枯れてしまった」と記してある。こうした状況で稲作の収穫が、危惧(きぐ)されたとおりの皆無に近い状態になってしまった。小倉藩の損毛(被害)高は、一四万八四七三石余にも達し、年貢収納は六万五九〇〇余石(「小倉領巡見上使心得書」豊津高校所蔵)で、年貢収納率は、三三パーセントに過ぎなかった。この年、西日本一円は、未曽有の大凶作となって、飢饉による多数の犠牲者を出してしまった。