ビューア該当ページ

巡見使答書に見る享保十七年の飢饉

1148 ~ 1149 / 1391ページ
西国一円に発生した大飢饉から、一四年後の延享三年(一七四六)幕府巡見使の問いに答えるために作成された「小倉領巡見上使心得書」(豊津高校所蔵)には、小倉藩の享保大飢饉の惨状を次のように記してある。
 
  享保十七年麦作不熟、過半御損毛(損害)御座候、しかるところ、秋作の儀諸ともに潤続き、よく根付相調
  べ候ところ、虫気相見え候に付き、昼夜様々手段を以って、虫追い申し付け候得ども、退き申さず、七月
  中旬より虫大分に相増え、その上田水赤黄色になり、色々手入れ致し候得ども、日増にいよいよ相衰え、
  今日よろしく相見え候稲も、一夜の中に腐り候間、皆損(皆無)と相成候、百姓ども力を失い騒ぎ立て、御
  城下へも袖乞に出候様に成り行き候、畢竟(ひっきょう)麦作損毛強くところから、右の仕合別して百姓ど
  も食物に難儀いたし、飢におよび候故、御曲輪(くるわ)外、または御城下などへも小屋掛け仰せ付けられ、
  飢人ども取り扱い仰せ付けられ候、其節御損毛の高、古田の内一〇万三九六三石と、御届け仰せ上げられ
  候とおりの儀御座候、当領に限らず、隣国一統の儀故、米穀才覚相調え難く、これにより、末々の者飢え
  候に付き、雑穀取り交ぜ、度々救米など差し出され候、その上公儀(幕府)よりも御廻米など仰せ付けられ、
  一統ありがたく存じ奉り候、しかるところに、その冬より、市郡ともに殊のほか時疫流行、おびただしく
  人数損い、右病気にて途中に煩い付き、道路に寝臥し候者ども、当地の者に限らずあまた御座候故、殿様
  御世話遊ばされ、療治の手段無き者へは、施薬仰せ付けられ、郡中へも御手医師ども差し回し、もっぱら
  施薬など仰せ付けられ候儀御座候、右飢えの上疫病相煩い、これにより損じ候者ども大勢にて御座候段、
  申し上ぐべき事。