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凶作から飢饉へ

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閏五月の長雨によって、麦作は腐れ、二分から五分の収穫しかなく、加えて六月中旬ごろから、ウンカが異常に大発生して、稲作の収穫も危惧される状況である。そうした中、七月には、早くも伝法寺(現築城町)の井出口下で、老人の行き倒れが出た。八月にも深野村(現築城町)で行き倒れの老女の餓死者が出た。飢饉の始まりである。九月にも、本庄村(現築城町)の往来道筋で、男の餓死者が出た。
      覚
  一歳五十ばかり中男
  一浅黄古袷着仕候
  一古単物着仕候
  一古帯着仕候
  一長手拭壱ツ


   外に所持の品は御座無く候
  右の者、本庄村往来道筋、的場と申す所に相果て臥候、餓死と相見え候、何の子細も御座無く候、何方の
  者とも相知れ申さず候に付き、御注進申し上げ候、以上
      九月晦日
                               (安武手永大庄屋)安武宇左衛門
       (築城郡筋奉行)岡村甚右衛門様
                                     (「安武手永大庄屋日記」)
 
 秋に入ると、飢餓は一層深刻になった。飢えた百姓は、山野の木の実や、草の葉など、食べられる物はことごとく食べ尽くし、飢え死にする者が続出した。『倉府見聞集』に「当時飢を凌ぎ居り候者も生きたる心地無く、余所のあわれ肥たる男女一人も無く、年も暮れて享保十八年と成れり」(『福岡県史資料』第三輯)。翌十八年になると、飢餓に追い打ちをかけるように、疫病が流行して「老人・子供・小児・病身なる者は、前々より飢え弱り候て、村々二十人、三十人ずつ餓死」(『四日市村年代記』)「小倉より帰る人の咄(はなし)にて、曽根より狸山の間に死人十四人、道に倒れ居り候由、前後所々にて都合十五人、中津口より大橋まで、五里の間なり」(『倉府見聞集』)と、飢餓のため、体力の弱りきった多くの人々が、餓死していった惨状を記してある。