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小倉藩の餓死者は四万人弱

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小倉藩は、これまでに経験したことのない大飢饉に、施粥や食物を領民に配給して、その対処に懸命に当たったのだが、あまりにも甚大な惨状に対して、藩からの救済はわずかで、その効果を上げることができず、多くの領民が餓死していった。
 小倉・開善寺の大宙禅師は、惨状をきわめる領内を巡回して、餓死者の冥福を祈り一人ひとりに戒名を付け「開善寺過去帳」を作成した。それによると、小倉領内の餓死者数は、第92表のように四万三〇六七人となっている(『小倉開善寺保享印塔由来』)。餓死者数については、諸書によって差異があるので、その実態を検討してみたい。
第92表 小倉藩の餓死者数
町郡名餓死者数
小倉町2481人
企救郡7622 
田川郡6891 
京都郡6097 
仲津郡7776 
築城郡6025 
上毛郡6175 
合 計43067 
(「開善寺過去帳」から)

 犀川町大村の瑞龍寺に、享保十七年の飢饉による、長井手永の餓死者を納めた「過去帳」が保存されている(『さいがわ』6号熊谷幸年)。この資料から、「開善寺過去帳」と「瑞龍寺過去帳」に記載されている長井手永の餓死者数を対比すると、開善寺に記載がないのは八ツ溝村、瑞龍寺に記載がないのは蔵持山で、その二カ所を双方から除いた餓死者数は、開善寺が一三四七人、瑞龍寺が一一五〇人で、一九七人の差異がある。率にして七・八八パーセントの差異である。
 瑞龍寺の数は、小地域という事情から、一概には判断できないが、開善寺の数より瑞龍寺の数が、実態に近い数を把握していると考えられる。そこで、開善寺の餓死者数を前述の差異七・八八パーセントで算出すると、小倉藩の餓死者数は、三万九六七四人となり、寛政元年巡見上使に答える覚書に「餓死如何ほどこれあり候やとの問に答える案文左のごとし、三万九三五四人餓死仕候、最も子(享保十七年)の八月より巳(元文二年)の八月ごろまで(五年間)に相果て申し候」(『鵜之真似』小倉開善寺保享印塔由来所収)と、この餓死者数に最も近い数字となるが、これは五年間の数で、幕府には過小に報告しようとするもので、実態は、前述の四万人弱であったと思われる。
 同じく、人口に対する比率を見ると、延享三年(一七四六)の小倉藩の人口は一二万四四〇二人(「小倉巡見上使心得書」)に、餓死者数三万九六七四人を単純に加えると、飢饉前の人口は、一六万三七五六人となる。すると、享保の飢饉によって人口の二四・二パーセントの人が餓死したことになる。