藩では、七月に飢人の内、体力のある者を一手永から一〇〇人ずつ、川掘人夫として小倉へ呼び集め、小倉溜池、豊後橋下、中島辺りの川を掘らせて、一人当たり米一升ずつ支給した。八月には、郡中へ売米銀札一匁に付き、一升六合替えで放出した。十月、十一月にも相次いで売米を放出した。
幕府も西国一円の非常事態に対して、勘定中間芝村藤右衛門ほか一一人を、西国の実情見分に派遣した。一行は八月二十一日大橋に泊まり、四日市(大分県)へ向かっている。十一月には、鈴木運八郎ほか九人、目付鶴田乗介ほか五人を派遣した。
幕府は、西国諸藩の飢饉に対して、金を貸し与えたり(第94表参照)、この年豊作だった東国から、急ぎ米を西国へ回送するなどして、西国一円の飢饉に対して、救済に懸命に当たった。小倉藩は幕府から、金一万二〇〇〇両を五カ年賦で借りて、飢饉の救済に充てた。
第94表 享保飢餓による幕府の貸付金 |
石 高 | 貸付金 |
30万石以上 | 20,000両 |
20万石~30万石 | 15,000 |
15万石~20万石 | 12,000 |
10万石~15万石 | 10,000 |
7万石~10万石 | 7,000 |
5万石~ 7万石 | 5,000 |
4万石~ 5万石 | 4,000 |
2万石~ 4万石 | 3,000 |
1万石~ 2万石 | 2,000 |
5千石~ 1万石 | 1,000 |
3千石~ 5千石 | 600 |
2千石~ 3千石 | 400 |
1千石~ 2千石 | 200 |
5百石~ 1千石 | 100 |
3百石~ 5百石 | 70 |
藩では、十一月十五日に郡中の困窮者へ、手永ごとに次のような救済をした。また、村の世話方にも、米などを貸し与えた。
覚 | ||
一米 | 五石 | |
一大豆 | 五石 | |
一荒布(あらめ)(海藻) | 千把 | |
一鰯(ほしか) | 拾石 | |
一塩 | 弐石 | |
〆 | ||
右の通り、飢人に仰せ付けられ候、当迄飢付き候者どもばかりに相渡し候へと、仰せ付けられ候、一手 永に左の通りにて、何れの手永も同前 | ||
一米 | 壱石弐斗 | 大庄屋へ |
一同 | 八斗 | 子供役へ |
一同 | 四斗宛 | 庄屋へ |
一大麦 | 三斗宛 | 方頭へ |
一同 | 三斗宛 | 散使(使い走り)ヘ |
一小麦 | 壱斗五升宛 | 小倉状持へ |
右の通り、拝借仰せ付けられ候 | ||
(「安武手永大庄屋日記」) |
このころ、小倉の町では、広寿山・開善寺・宗玄寺・峰高寺・成願寺・永照寺で、粥(かゆ)の焚き出しをして、飢人の救済に当たった。
十二月にも藩から救済があった。今回の救済に先立ち藩から、先の救済は困窮者ばかりの救済としていたが、村々では総人数割で分配していることを指摘し、「此度飢人改帳申し付け候間、随分軒別庄屋・方頭詮議いたし、依怙贔屓(えこひいき)仕らず、当時飢扶持無き者、ならびに飢臥居り申し候者ばかり、至極詮議相詰、実儀に相改め、人数付けいたし、差し出すべき候」(「安武手永大庄屋日記」)と、軒別厳しく調べて、改帳を出すよう通達している。十二月二十四日に、飢えの者を男女年齢別に分けて、次のように救済の食料を支給した。
覚 | |||
一五升 | 粉糠(こぬか) | 一三升 | 粉糠 |
一弐升 | 干鰯(ほしか) | 一三升 | 干鰯 |
一拾把 | あらめ | 一五把 | あらめ |
一五合 | 米 | 一三合 | 米 |
一五合 | 大豆 | 一三合 | 大豆 |
一五合 | 塩 | 一三合 | 塩 |
右は十一歳以上男壱人前 | 右は十歳以下男女、女は右の割の内に入 | ||
(「安武手永大庄屋日記」) |
また、翌十八年正月二十三日にも、一人当たり米一合五勺、粉糠三合、あらめ少々、干鰯三合五勺を支給した。凶作による米不足は、米相場をつり上げ、同月十九日には一石に付き九八匁、小売り一匁に付き六合となった。米価は、前年八月の三倍強にも値上がりした。藩では、多くの百姓が種籾を食い尽くしたため、根付料を貸し与えた。四月になると、疫病が流行し、薬を支給するなどして、飢人の救済に当たった(『倉府見聞録集』)。
藩も飢饉に対しては、救済の対策に懸命に当たったのだが、未曽有の大飢饉には救済は行き届かず、その上、飢饉になると発生する疫病の流行によって、体力の衰えている者は、つぎつぎと死んでいき、多くの犠牲者を出してしまった。(第80図参照)。
第80図 餓死者の供養塔
幸いに、翌十八年は「当年畑方相応に出来、田方は穂に穂に二つ三つほどずつ出来、めずらしき大豊作」(『四日市村年代記』)となって、悪夢の飢饉から逃れることができた。
幕府や藩は、未曽有の大飢饉を教訓に、不時の凶作に備えて、囲籾の整備や社倉など、備荒貯蓄を目的とした救荒政策の整備をすすめていくことになる。