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天明の飢饉の始まり

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享保十七年(一七三二)の西国一円の大飢饉から、五一年後の天明の飢饉は、天明三年(一七八三)から同八年まで六年間続いた。享保の飢饉が、ウンカの異常発生によって起きた、単年の飢饉であったのと異なり、数年続いた天候不順の連続で起きた、全国的な大飢饉であった。中でも東国地方では、天明三年の浅間山の噴火は、東国に日照不足をもたらし、大飢饉を記録した。東国一帯は、犬猫や食用の習慣のなかった牛馬、はては、死人の肉まで食ったと伝えられ、目を覆うばかりの惨状であったと、今に伝えられている。
 飢饉の原因となった、天明三年から同七年までの、天候不順の記録が第95表である。天明三年の冷害を除いては、長雨と旱魃(かんばつ)による凶作で、中でも天明三年・同六年・同七年の凶作が甚大であった。小倉藩でも同様に、天候不順による凶作続きで、飢饉に見舞われた。
第95表 天明飢饉の異常気象
気 象 状 況 と 作 柄
天明3年浅間山噴火で東北地方は日照不足で大凶作、冷害による全国的な凶作
6月中旬から下旬まで寒気となる。
〃 4年天候順調で平年作。
〃 5年5月から6月末まで、およそ60日間の旱魃となり、凶作となる。
〃 6年6月初めから7月7日まで、およそ30日間雨が降り続く、田方虫付きになる。畠作皆無同様となる。8月の風水害で稲作は五、六分の作柄となる。
〃 7年春の長雨によって麦作皆無となる。このため、米価は高騰して7月には1石200匁になる。
(『禅源寺年代記』「国作手永大庄屋日記」「安武手永大庄屋日記」から)

 天明三年の夏は異常低温で、冷害による凶作であった。「安武手永大庄屋日記」によると、同年五月二十八日には、例年どおり手永中の田植えが終わったのだが、六月中旬になって寒気となり、異常な冷夏となった。
  六月十七日 大雨、北風烈敷、夜より(雨)降出
  同 十八日 大雨、北風強く、布子袷重着
  同 廿七日 雨天、寒気
  同 廿八日 雨天、寒気
  同 廿九日 雨天、寒気
 と、気候は六月中旬以降は、北風の吹く異常な冷夏となって、十八日には袷(あわせ)の重ね着をして、寒さを凌(しの)ぐほど寒気が強かったこと、同月末まで寒気が続いたことを記してある。