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天明年間の米価の変動

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天明の飢饉による米価の変動は第97表のとおりである。この記録は、禅源寺(大分県宇佐市)の『年代記』から抄出したもので、禅源寺は、豊津町にあまり隔っていない距離にあり、天候、凶作の状況は、さほど変わらないと思われる。
 

第97表 天明元年~7年の米価の変動

 米価は、飢饉の始まる前の天明二年(一七八二)には、一石に付き七〇匁から九〇匁であったのが、凶作となった同三年には、一〇五匁から一一〇匁となり、凶作による米不足から、翌四年正月には早くも一二六匁となり、一カ月の間に一六匁の値上がりを示した。この年は四月には一四〇匁まで値上がりした。
 同五年正月には、八八匁と大きく値下がりを示し、九月には七〇匁まで値を下げた。このことは、前年の作柄が良かったことを物語っている。
 同六年正月には、七五匁と米価は安定して推移していたが、六月初めから七月七日ごろまで、およそ三〇日間雨が降り続き、このため田にはウンカが発生、畑は無収穫同様の被害で、それに追い打ちをかけるように、八月二十八日から二十九日にかけて風水害によって、稲作は五、六分の作柄となってしまった。凶作となって、米価は十月から十二月にかけて一二〇匁となり、前年に比して三六%の値上がりを示した。
 同七年の三月には、一三〇匁に値上がりした。この年の麦作は、春の長雨によって皆無となった。このため米価は高騰して、七月には二〇〇匁にも値上がりした。八月に入って、新米の収穫があって、ようやく一三〇匁まで値下がりした。