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商家へ無心の百姓たち

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自然の気象に左右される農業は、天候不順に対しては、なす術(すべ)もなく、ただひたすらに日乞い、雨乞いの祈祷をするのが精いっぱいの抵抗であった。天明七年春の長雨に対して「麦作痛相成候ては、下方一統ますます難渋のことに付き」(「国作手永大庄屋日記」行橋市歴史資料館所蔵)、祇園社で、二夜三日の日和乞いを命じている。しかし、こんなことで天候の回復するはずはなく、麦作は皆無の状態となって、米価は高騰した。またも飢饉である。飢饉は、町場に比べて郡中は深刻であった。飢饉のたびに打撃を受けるのは、百姓たちであった。
 同年の「国作手永大庄屋日記」に、五月二十六日から二十八日にかけて、大橋(現行橋市)の商家へ、郡中の百姓たちが、無心に押しかけた記録がある(第98表参照)。生活に行き詰まった村々の百姓は、町場の富裕な商家へ、集団で無心する行動をとった。集団行動は、一揆になりかねない状況だが、記録に見るかぎり、富家への打ち毀(こわ)しは起きていないようだ。商家も百姓たちの無心のたびに、わずかながらでも施しをして、打ち毀しを逃れたのであろう。各地でもこのような百姓の無心があったものと思われる。
 藩では、郡中の救済に、六月になって困窮の百姓へ、わずかだが救済の米穀が支給された。
第98表 天明7年・百姓の無心に押しかけられた商家
月 日商 家拠出額無心の百姓
5.26
5.27
大橋町松屋吉兵衛銭6匁
銭4匁
築城郡の百姓47人が酒代無心
上毛郡の百姓20人が無心
5.26油屋久兵衛銭4匁上毛郡の百姓
5.26
5.28
潮屋平兵衛白米2升
白米3升5合
上毛郡の百姓が飯米無心
上毛郡の百姓19人が飯米無心
5.27亀屋清左衛門白米2升6合上毛郡の百姓13人が飯米無心
5.28五月屋忠右衛門白米3升5合上毛郡の百姓21人が飯米無心