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連年の凶作から飢饉へ

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天明の飢饉の後も、寛政期(一七八九―一八〇一)には、数年おきにひどい天災で不作が続き、農村は疲弊しているにもかかわらず、藩財政確保のため、寛政期の家老犬甘兵庫による改革で、年貢徴収の強行策が展開された。その上、文政十一年(一八二八)には、風水害による凶作で、農村は息つく暇もなく、天保の飢饉に突入した。
 文政十三年(一八三〇=天保元年)には、二度の風水害によって被害が出た。七月八日の風水害は、「この度の風、田畠ともに大分相障り申し候趣、別て早進みの稲には格別相障り申し候様子相聞へ、苦々敷存じ奉り候」、同月十七日には二度目の風水害に遭った。大橋村では、四七町四反が冠水する被害を出している。「私ども稲虫見分仕候所(中略)遅植えの田坪には、いづれの村も格別稲虫多く御座候て、坪に寄り候ては、少々落込み等も相見え申し候、惣野すべて虫痛みと相見え、稲下葉殊の外枯葉多く、所に寄り候ては、野色怪しく赤く相見え候」(「国作手永大庄屋日記」)と、仲津郡大庄屋五人の連名で、風水害による被害届を出し、ウンカの発生を懸念する報告をしている。
 この年、稲の実入りは思いのほか少なかったが、麦作が良かったので助かったという、不作の年であった(『北九州市史』近世編)。連年の天候不順による、天保の飢饉の前兆でもあった。
 天保元年は、享保の飢饉から九九年、天明の飢饉から四二年目に当たる。天保二年は、享保の飢饉の餓死者百回忌に当たり、同三年三月には、小倉の開善寺で大々的に、享保の飢饉による餓死者百年忌法要が執行されて、各郡から大庄屋一人、一手永から庄屋一人が惣代として参詣した。
 天保二年、三年は何事もなく、平年作であった。同四年は、東北・北国・関東は凶作で、その影響で米価は上がったが、小倉藩は総じて、平年作より少し悪かった程度であった。
 天保五年は、「麦不作に付き、庄屋中より歎出」と麦作が不作であった。この年は天候不順で、六月二十四日の夜から二十六日まで大風雨、翌二十七日午前十時ごろに風がやんでから、日照りが八月十日まで四一日間続き、旱魃による不作の年になった。
 同六年も天候不順で、九月には「当秋作向、夏以来季候不順にて秋劣、その上風痛」の凶作で、仲津郡へ米九〇〇石の救米が支給された。同十二月には、仲津郡へ米四〇石四斗、一手永米八石八升ずつの救米が支給された。