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天保七年の凶作

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天保元年の風水害、同五年・同六年は、天候不順による不作が続き、そのため、慢性的な農村不況が続いて、農村は年々飢饉の様相を呈していた。こうした中で、天保七年(一八三六)の凶作の年を迎えた。その年の凶作の模様を崎山村(現犀川町)庄屋磯七は、二年後の巡見使案内役として、巡見使の問いに「山付の村は皆無同様の所も段々御座候得ども、押し並べおよそ四歩通」(「巡見上使様大村御泊一切控帳」永井文書)で、山付きの田は皆無(無収穫)同様であったが、平野部の被害は少なかったと見え、平均して平年作の四〇パーセントの作柄であったと答えている。
 また、「御巡見方御尋之節御答覚書」(永沼文書)には、「この年は、春以来雨滋に御座候て、麦作不熟の上、稲植付後も矢張り雨勝にあり、田方に虫付(中略)初秋まで雨降り続き、雨痛・虫痛にて大いに不毛上」であった。天候不順による凶作である。
 「国作手永大庄屋日記」によると、この年は七回も風水害の被害を受けている。五月九日雨風洪水、同月十八日洪水、同月二十六日洪水、六月四日洪水、同月十二日洪水、「先ごろ以来別て雨天勝に付き、先々気遣敷」と稲作が心配され、穀類の積み出しが禁止された。その後、田に稲虫が発生して、同月十九日には、藩から郡中へ鯨油が支給された。仲津郡には八〇挺の支給があり、国作手永には一六挺が支給された。田に鯨油を入れて駆除する。同月二十九日にはまた洪水、七月七日・八日は大風雨洪水で、天候異変の連続の年であった(第101図参照)。
第101表 天保7年4月~8月の天気
○晴天△曇天●雨天
 月
4月5月6月7月8月
1
2
3
4●洪水
5
6
7●大風雨
洪水
8● 〃
  〃
9●風雨
 洪水
10
11
12●洪水
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18●洪水
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26●洪水
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29●洪水
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(「国作手永大庄屋日記」から)