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天保七年の飢饉の救済

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天保七年十二月一日の夜、藩と農民に衝撃的な出来事が起きた。築城郡筋奉行延塚卯右衛門が、この年の年貢収納に関連して、財政確保維持のために、年貢の引き高を渋る藩と、連年の不作で困窮する農民の間に立ち、農民の窮状を見るに忍びず、根付料の取り立てを自己の一存で免除し、農民に有利に取り計らった責任をとって自刃したのである。筋奉行を自刃に追い込むほど、農村は連年の不作続きで、極限にまで疲弊していたのであろう。延塚卯右衛門は、のちに農民から義人としてたたえられた。
 藩では、飢饉に対する救済手当てとして、天保七年十二月には郡中へ一五〇〇石の囲稗を極難の者へ支給した。また、同月二十九日には、米をわずかではあったが支給した。翌八年二月二十三日には、昆布・干鰯(ほしか)、三月二日には糠、同月八日には唐芋、同月二十六日には糠、また、極難の者へ米三升と糠一斗ずつを支給した(第102表照)。四月には、郡中へ三〇〇俵の扶助米が支給された(第103表参照)。
第102表 天保7年飢饉における村別救済
支給日天保
7.12.29
天保8.2.238.3.28.3.88.3.268.3.26
品目支給
人数
昆布
(ほしか)
支給
人数
唐芋支給
人数
村名
貫  匁升 合斗 升
上坂2 21 1.574 3.4 2 11 95 2 1 3  1 
綾野3 28 2.630 4.5 3 16 138 5 5 15  5 
下原2 1.410 2.4 4 11 95 3 3 9  3 
呰見2 36 3.284 5.8 5 26 224 5 4 12  4 
有久2 10 940 1.6 2 5 50 2 1 3  1 
徳政2 17 1.998 3.4 4 19 163 5 4 12  4 
国分4 44 4.136 7.2 5 26 224 8 6 18  6 
国作4 45 4.150 7.8 5 28 241 6 3 9  3 
惣社2 11 1.034 1.8 2 9 77 2 3 9  3 
田中2 48 4.512 7.8 6 26 224 6 6 18  6 
(「国作手永大庄屋日記」から)

第103表 天保7年飢饉における郡別扶助米
郡 名俵 数仲津郡の手永別俵数
企救郡69俵
田川郡66俵
京都郡35俵 
仲津郡46俵国作手永 8俵
元永手永10俵
長井手永10俵
節丸手永 8俵
平嶋手永10俵
築城郡36俵
上毛郡38俵
御領分10俵
300俵    46俵
(「国作手永大庄屋日記」から)

 八月には、極難者の救済のために、小倉橋本御番所前から、湊口御番所前の水尾筋の川浚(かわざら)えを三〇日間させることにした。道具は藩から貸し与え、働ける者は女でも一五歳ぐらいの男でも雇われた。三〇日間の川浚えの内、町方に一五日間、在方に一五日間が充てられ、在方は八月一日から一五日間であった。
 川浚えの出夫は延べ七五〇〇人で、内一二五〇人は企救郡で、残り六二五〇人が五郡からの出夫で、そのうち正出夫は一郡に七五〇人である。一日一郡から五〇人ずつの出夫であるが、出夫が多数のため三組に分けて、一番方五日間、二番方五日間、三番方五日間と交替で出夫した。在方の出夫は、人馬小屋を宿舎に充てての出夫で、五ツ時(午前八時)から七ツ過ぎ(午後四時)までの勤務で、一日米一升が支給された。一人五日間の出夫で米五升の救済であった。
 
       覚
  一七千五百人                 六郡川浚夫高
     内千弐百五拾人             企救郡夫高引
  残六千弐百五拾人               五郡出夫高
     内一三千七百五拾壱人            正出夫
    但一郡ニ付七百五拾人 弐歩宛、日数十五日ニ割一郡ニ付五拾人宛
      一弐千四百九拾九人             出入夫
 
 飢饉の救済のために、在方の百姓を小倉へ呼び寄せて川掘りさせる救済は、享保十七年の飢饉のときと同様で、このときも一日米一升ずつを支給している。
 天保八年は、麦作は不作であったが、稲作は近年にない豊作(「国作手永大庄屋日記」)となった。