しかし、翌九年(一八三八)は、夏以来雨が多く不作の年であった。「長井手永大庄屋日記」に、川筋破損、池土手切れなどの水害による被害などが記録されており、七月二十七日には、他郡へ穀類の持ち出しを禁止する「穀留」が通達されている。
十二月に、長井手永大庄屋長井覚七から筋奉行小出段蔵へ差し出した「長井手永戌秋欠落者解崩家調子帳」には、年貢を納めるために一切を売り払ったが、なお内借が残り、欠け落ちした者が六人、家を売り払い、年貢上納に充てた者が一四人記録されている。この年の不作を『中村平左衛門日記』(北九州市立歴史博物館刊)には、「申の歳(天保七年)の弟と申す位なり」「一統困窮におよび候」という年であった。