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天保の飢饉による人口動態

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連年の凶作続きで、農村不況で生活に行き詰まった百姓は生活の糧を求めて、田畠を放棄して、村を出ていった者が多く見られる。第105表は、仲津郡の天保五年(一八三四)の人口に対する同十一年(一八四〇)の人口動態である。
第105表 天保飢饉における仲津郡の人口増減
手永名天保5年天保11年差引増減
軒数軒数軒数
国作804175015983348748160115113112△56△149△87△236
節丸9382148192940779552168195941277203050
平嶋711156114903051698150114192920△3△60△71△131
長井884202818543882883198618493835△1△42△5△47
元永1004237721704547989231020874397△15△67△83△150
4341986490411890542739566882518391△68△298△216△514
(「仲津郡人別男女増減差引帳」永井文書から)

 豊津町域の大部を占める国作手永・節丸手永を見ると、国作手永は、軒数で五六軒、人口で二三六人が村を離れている。これは、仲津郡内で突出した人口流出である。理由は何であろうか。欠け落ち先は分からないが、連年続く飢饉で、百姓に見切りをつけて、一家挙げての欠け落ちである。
 このような欠け落ち百姓の出現は、村内に多くの手余り地を出し、亡村になりかねない状況で、村の再生産に大庄屋をはじめとする村役人は、頭の痛い問題を抱えることになるのである。
 国作手永の多数の欠け落ちに対して、節丸手永は逆に軒数で七軒、人口で五〇人の増加となっている。仲津郡五手永の内、唯一増加を示している手永である。この理由は何であろうか。課題の残るところである。
 江戸時代の農民と飢饉は、宿命ともいえるほどで、農民の窮状に対して、飢饉のつど藩からは、窮民対策が一応とられているのであるが、飢饉に対する根本的な救済対策は無にひとしく、天災による凶作のたびに、ひどい窮状にほんろうされるのは、いつも弱い立場にある百姓たちであった。