第105表 天保飢饉における仲津郡の人口増減 |
手永名 | 天保5年 | 天保11年 | 差引増減 | |||||||||
軒数 | 男 | 女 | 計 | 軒数 | 男 | 女 | 計 | 軒数 | 男 | 女 | 計 | |
軒 | 人 | 人 | 人 | 軒 | 人 | 人 | 人 | 軒 | 人 | 人 | 人 | |
国作 | 804 | 1750 | 1598 | 3348 | 748 | 1601 | 1511 | 3112 | △56 | △149 | △87 | △236 |
節丸 | 938 | 2148 | 1929 | 4077 | 955 | 2168 | 1959 | 4127 | 7 | 20 | 30 | 50 |
平嶋 | 711 | 1561 | 1490 | 3051 | 698 | 1501 | 1419 | 2920 | △3 | △60 | △71 | △131 |
長井 | 884 | 2028 | 1854 | 3882 | 883 | 1986 | 1849 | 3835 | △1 | △42 | △5 | △47 |
元永 | 1004 | 2377 | 2170 | 4547 | 989 | 2310 | 2087 | 4397 | △15 | △67 | △83 | △150 |
計 | 4341 | 9864 | 9041 | 18905 | 4273 | 9566 | 8825 | 18391 | △68 | △298 | △216 | △514 |
(「仲津郡人別男女増減差引帳」永井文書から) |
豊津町域の大部を占める国作手永・節丸手永を見ると、国作手永は、軒数で五六軒、人口で二三六人が村を離れている。これは、仲津郡内で突出した人口流出である。理由は何であろうか。欠け落ち先は分からないが、連年続く飢饉で、百姓に見切りをつけて、一家挙げての欠け落ちである。
このような欠け落ち百姓の出現は、村内に多くの手余り地を出し、亡村になりかねない状況で、村の再生産に大庄屋をはじめとする村役人は、頭の痛い問題を抱えることになるのである。
国作手永の多数の欠け落ちに対して、節丸手永は逆に軒数で七軒、人口で五〇人の増加となっている。仲津郡五手永の内、唯一増加を示している手永である。この理由は何であろうか。課題の残るところである。
江戸時代の農民と飢饉は、宿命ともいえるほどで、農民の窮状に対して、飢饉のつど藩からは、窮民対策が一応とられているのであるが、飢饉に対する根本的な救済対策は無にひとしく、天災による凶作のたびに、ひどい窮状にほんろうされるのは、いつも弱い立場にある百姓たちであった。